アメリカ大統領選挙とカナダ

昨日、8月29日はニューヨークでデモらしいよと書いたら、今日見たダウンタウンからほど近いトロント大学の楽屋裏風の通りにある映画館のチラシには、「華氏911」が27、28、29の上映だとあった。

ここはいわゆる封切り館ではなくて、かなり相当面白い映画を完全に好みでやってるよな、この映画館、ってな感じでピックアップされていて、それはそれは面白い映画館なのだが、そこのスケジュールとデモのスケジュールが合っているというのは偶然なのだろうか? なんかこう、Stop Bushのムードを盛り上げようという算段がどっかで動いているのではあるまいかと考えてみたくなる。って別に悪いわけじゃないけど。


カナダなんだからアメリカの大統領選挙に気張ってもしよーがないじゃん、と言いたくもなるのだが、しかしその見解は多分2つの理由でまちがい。

1つは、カナダにとって、なかんづく、戦争とか止めてよ、人種差別をわざわざ人びとの頭に重い浮かばせるような諸政策はやめてよ、と考える人にとってブッシュ的なるもののトレンドは確かに迷惑。著しく不評。したがって言葉は悪いがアメリカ人をたきつけてでもブッシュを追い払ってほしい(自分たちじゃできない)と考える人はいっぱいいそうだ。

イラク戦がはじまるか否かのあの冬の終わり、トロントの街角で見た女の子の鞄には「Stop War & Racism」なるバッチがついていた。レイシズムというと、黒人とかアジア人を白人が差別することだけと捉えられやすいが、ここにあってはそういうある種「矮小化」されたものではなくて、レイシズムはもっと大掛かりだ。網はでかい。つまり、ある個人の言動を、その背景、主として民族に置き換えて批判したり褒めたりというのは、基本的にはおかしい、と比較的楽に考えられている節が濃厚。個人Aが主体。

対して、ブッシュ的なるものが主導してしまったのは、あきらかにこれに反している。ポートで、ボーダーで何を持って人を区分するかといえば、それは国籍であったり出生地。そしてこうした行為はここだけの、限定的なサーチにだけ関わるわけでなく、どうしても、その他の時間、空間内にも関与してしまう。たとえばそれはメディアが、意図は別のところにあるとしても、大きな役割を果たす。なぜなら、「中国人、逮捕」とか「ムスリムが抗議する」とどうしても表記するからだ。これによって、繰り返すがその発話者の意図がどこにあれ、中国人やムスリムという集団が遡及的に醸成される。

これ以外にも迷惑があって、それはもっと単純でしかしながら持続的でやっかいなのだが、アメリカに与するのはいいとしても、ディフェンス網に入れられるのだけは勘弁だ、と考えている人が多いなかで、レーガン、ブッシュはこれを断固やりたい。今もまた、入るか入らないかでゆれている(日本の新聞は、カナダが入りそうだ、という観測記事を過去に垂れ流しているが、断定ではない。まだ揺れてる)。


最初の理由ですっかり紙原稿なら紙幅も尽きて、と書かないとならないような感じだが、ブログっていいね(^.^;;。


さて、で、2つめの理由。それは、カナダの動向、とりわけ東部地区の動向というのは、アメリカの一般人世論にとって、結構な影響を与えている、少なくともぽポテンシャルがそうだ、ということ。マイケル・ムーアの場合など、カナダとの落差でアメリカを批判していると言っても過言ではないだろう。

アメリカ人の中ではマイケル・ムーアはカナダ人だと信じて疑ってない人がいるらしい。自分のサイトで書いていた。
http://www.michaelmoorejapan.com/words/faq.html

総じていえば、アメリカ人がアメリカ国内で言えなくなったらカナダでバックアップみたいな感じか。ベトナム戦争の脱走兵受け入れはその象徴だけど、それがずっと今も続いていると考えて悪い理屈はないのじゃないのかと思う。今アメリカでダメ、ってのを温存可能な場。アメリカの野党はカナダ、という人もいる(笑)。


で、このあたりは日本から見た時の盲点ではなかろうかと私は時々思ったりする。
何によってアメリカが動かされているのかは日本からはなかなか見えない。あたかもすべてがアメリカ独自にみえもする。アメリカという巨体(虚体?)が太平洋に立ち塞がってるおかげでブラインドに入ってしまうのかも。といってまさかカナダに動かされているとは言わないが、ヨーロッパ、カナダの集合体みたいなもの、ま、ようするにNATO枠が漠然とあって、それとの対話の中で話しが決せられている、少なくとも是非のムードがそこで醸成されている。

カナダが対米で別に従属という感じがあんまりしないのは、歴史的だとか、人種が同じだとかいうスタティックなものだけでなく、畢竟この構造なのだろうと私なんかは思う。アメリカにとって気になるリーグの中に入っているからだし、どこよりも同じ言葉を話してるってのもデカイ。しかも言葉に関する限り、互いに貸し借りはなく、つまり文明的な主従はあらゆる意味でない、と。主従があるならイギリスに対してだけだ、と。

しかしこのことを理解しているカナダ人ばかりではなくて、移民して来た一世というのは、現在でいえば、最初っから、どこであってもアメリカに従属しているというアイデアが所与になっていて興味深い。いわく、貿易の8割がアメリカ向けである国で何ができるっていうんだ! 貧乏な国じゃないか、だったりする(しばしばそう言う人がいる)。が、しかし、だったらなぜそれにもかかわらず、国境であんたのパスポートがスルーしているのか、カナダ政府も踏んばってるよなとまずは考えろよ、だし、それにもかかわらず貧乏なあんたの娘が国立大学に行く可能性の高さを喜べよ、なのだが、おおにして彼らはなぜそれが可能になっているのかを考えない。

私としては、これら対米従属、愛国心粉砕の影響をそのままにひきずる人びとの人数が多くなった時のカナダというのは、今と違って行く可能性は高いだろうと考える(愛国心と言っても、ネーション大事心だが)。しかし、多分だからこその、去年あたりから国是としてのマルチカルチャー(上に書いたように原則は個人であるが故だが。ここを誤解している人が多い)をチューンナップして、それによってある種の「和」を形成して、国力強化をはかろうという寸法なのではないかと私は考えている。国力強化って、別に重化学工業だけじゃないからね。フェーズは知的集約型ではあるし。

そして、ナショナリズムはこの時協力なバネになる。ナショナリズムがなかったら域内の人間の公教育を遂行する理由、大義がない。域内の人間の公教育がなかったらその国は落ちるに決まってる。ま、個人の主体的な意志としては、自分の子どもの可能性を伸ばすために学校に行かせる、そしてそれをするために私が努力したのだとしても、その時その学校があらゆる意味で手近でなかったらその目的は達成されない。

学校というのが比較的も糞もなく結構社会の中で充実した存在感を持った国なんだよなぁと時々思っていたのだが、それはまったく故のないことではなかったような気がする。