民族>国家=個人


今年の2月に、アメリカの海軍に勤務中に北朝鮮関係の機密情報を在アメリカの韓国大使館の武官に提供しスパイ罪で逮捕さて、プリゾンに入っていたコリアン・アメリカンが仮釈放されたというニュースがあった。

http://times.hankooki.com/lpage/200402/kt2004021516212810230.htm
これは、Korean Timesっていう英字の新聞。どういう系統なのか私はよく知らない。そういうニュースがあったとサンケイでちらっと読んだので、英文検索してあてた。

サンケイの記事はその後なくなっている。これって通常のことなのかそれともそうでないのかは不明。


で、この事件の記事のある種のハイライトは、この仮釈放されたコリアンが、韓国で、祖国愛に燃えてる的に扱われたらしいということ。韓国側にちゃんと北朝鮮関係の情報が渡ってないだろう、と、だから祖国のためにやったのだ、と。サンケイのフォーカスはそこにあった。

Despite the crime in the U.S, Kim has won wide sympathy and support among many South Koreans. Internet fan clubs have been formed and prayer meetings have been held to support him.


しかし彼はアメリカ人なわけだ。このへんの違いは是非、終らない棒倒しを読んでほしいのですが、私がA国生まれで、A国育ちなことと、A国人であること別なのだ、つまり近代の国家とは何であるか、を、どうやら日本人も相当しどいと思ったが、韓国人はさらに輪をかけているなと私は思ったし今もそう思う。


しかも、まったくしかもなんだが、仮釈放を願う手紙ってのに書いてあるのは、彼の父親の葬儀にささせてくれ、ってことで、父親の葬儀にでることは親子にとって本質的に重要だ、とくにここ韓国では、なんてことだったりする。

これを本当に国家反逆罪と等価の問題として扱えるというのが、私には全く理解できないのだが、多分人によってはできるのでしょう。日本にあっても。

だけど、私にはこういう傾向は国家を形成し、その中で多くの人が適度な自由を享受するためには全く適切だとは考えない。なんとなれば、それは私法が公法を、ぶっちぎりで、なんのコンセンサスもなく飛び越えていることにまったく躊躇がないからだ。


と、これら思うに、契約の問題があまり重要視されていない社会らしくは見えるし、民族、出自、生まれながらのなになに、というのが、個人よりも当然に大きいと理解されているらしくはみえる。国家とはしかし、とりわけ近代において、それは個人の集合体が作っているものなのだ。それだからこそ「私たち」と言える私たちを形成するのはなかなか難儀でもある。そしてだからこそ、国家と法が必要なのだ。