『となりに脱走兵がいた時代』

ジェンキンスさん引き渡し要求先送り…米駐日大使
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20040717it05.htm

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米側は当初、法制度や軍の規律を重視する立場から、ジェンキンスさんが来日すれば、直ちに身柄引き渡しを求める構えを崩していなかったが、人道的な観点からぎりぎりの譲歩をしたと見られる。

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私には何度も同じことを言っているようにしか読めないが、これが最新。日本時間17日付け。


アメリCBSでは、

Deserter To Risk Arrest In Japan
http://www.cbsnews.com/stories/2004/06/02/world/main620738.shtml


日本で逮捕されるリスクがあることをまず見出しにあげている。でも2日前に事の次第、つまりそういうリスクがあるけどベーカー大使によればジェンキンスさんは病気だから仕方がないだろうという感じで説明されていたから、急に強硬に出ているという話しではない。ただ、その記事は、

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米国政府はジェンキンス氏の詳細不明の健康問題について「同情」しているし、ワシントンはジェンキンス氏が日本に来ることになっても米軍病院で治療をうけるよう主張してはいない、とベーカー氏は言っている。

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こういう感じの書き方だったが。


BBCの今日は上のアメリカと方向は一緒。

US to pursue 'deserter' in Japan
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/3895581.stm


と、私が気になるのは日本のメディアの報じ方を見ると、ジェンキンスさんを安全に確保するのが至上命題化している感じがすること。


これって、アメリカにされそうだ、大変だ、なんとかしなければ、ということは、アメリカから保護しないとならない、すなわちアメリカ恐ろしいになっているわけだ。


ついでにいえば、これを「人道問題」と朝日などは早々に書いていたが、人道問題って、なんだって人がからめばそりゃ人間問題、人道問題だろうが、この意味をもし他国にぶつけるとしたら、あきらかにそれはその国は人道問題をおかしているという意味だと思うのだが。

それならそれでいいだろう。ではアメリカがおかした人道問題とは何か。私にはこの場合、ベトナム戦争だ、以外に答えがないと思うんだが。ということは日本国は政府をあげてアメリカにベトナム戦争は非であったと言っているも同然のことをこの頃やっている。

で、他国のメディアが追っているとしたら、この伏線をどうするのかをも当然に見ているからだろう。もちろん軍の規律を一顧だにしない日本というのも著しく興味深いテーマだろうが。


個人的には、ベトナム戦争についてはまったくあっぱれにそうだ、と言うだろう。しかし、これを政府あげて、物も言わず、にこやかな顔をしてやっているというその仕組みは私には驚き以外の何ものでもない。


『となりに脱走兵がいた時代』
http://www.jca.apc.org/beheiren/Tonariniitadassouhei-shohyou.htm

これはべ平連がアメリカからの脱走兵を匿って逃がした記録だそうだが、日本人にとっての脱走とは、大きな悪から逃げるのはまったく正しいで終っているのかもしれない。

これでは国家など語れまいと私は思う。だからといって国家の命令には逆らうななどと寝ぼけたことを言いたいのではない。国家にとって必要なこと、できること、すべきことと、私がそうして欲しいこと、そうだといいなということを分けて考える習慣を持たなければならない、いい加減、とそれを思う。そしてそれができなければ、実際には、無法が、つまり法よりも法執行の時代を招来することになると私は考える。



脱走した兵が恩赦を求める行為に私または私たちは加担すべきなのか否かは、人によって考えは違うと思うし当然そうあっていい。どうあれそこで戦って死んだり傷ついたりした人がいる戦争を抜け出すという行為を、まったく結構なことだと言うのが正しいと思えない人がいても当然だ。


また、先日みたベトナム拒否者の処遇でもわかるように、かつての脱走は生きるか死ぬかの刑にはならないし、形式的な訴追で恩赦という形になるであろう確率は高そうだ。それでもまだ、自分が何をなしたのかを言わない(たとえばそれが誘拐だった、という宣言であっても)、言おうとしない人に対して、私はそんなに結構なことですね、とも、まったくよかったですねとも言わないかもしれない。だってそれでは根本的に国家=国民との契約はどうなるのだ、でもあるし、それよりももっと心情的倫理的にいうのなら、当該戦争に対して拒否をするにしてもしないにしても、苦しんだ人はアメリカにも大勢いるのだし、彼にとってそれらの人々は仲間ではないのかなど疑問を持ちたくもなるからだ。


一緒くたにしてはいけないのは、戦闘がリアルである時代の脱走行為。これは叛旗を翻すことで、実際戦争を止める行為に加担するという意味で、国家主体に対するという意味で十分にリスクを取っているから事後の問題と同列には論じられない。

しかしそれでもその個人にも行為をなす意志を持ち行為した以上責任はあると考えるし、こんなこと言うまでもなくそう思って人々は行動するだろう。


といって、他人に立派な行為と私が思う行為をせよと言い渡す資格を私は持たないから、彼は彼で好きなように決意し行為すればいいと思う。私は私で私の政府のやり方に注目し政府にもの申すべく考える。


こういうことを言うと叱られそうだが、この国は男はいないのかと言いたいものがある。