ポピュリズム、無法、閉塞

民主が大幅躍進、自公で絶対安定多数は確保
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20040711it15.htm


なんかこう、3か月前に書いても使えるような見出しだし、中身もそんな感じだった。

そうして、そうであればあるほど、いやぁ「パシフィストからポピュリズムへ」は効いてくるなぁとしみじみ。

そして、つまるところ「渾身の錯誤」は続くといってもいいのかもしれないなど思う。なぜ錯誤とポピュリズムを同列に考えるのかといえば、両方とも考えるという行為をすっとばしている、前者は結果、後者は状況だと思うからだ。


しかも、両方ともそれで悪いともおそらく思っていない人たちによってなされているだろう。個々の人の主体的な意識としては、自分で決めた、自分がその方がいいと思っている、それ以上でもなんでもない、と。


一方、錯誤を錯誤だと考え得るのは、自分の主体的な判断と、状況から考えた自分の行為がもたらし得るものの差異に気が向くからだ。ポピュリズムもまた同様の仕組みで、今自分的にはこれがとってもいいわぁと思えるその瞬間で意識が止まり、全体から考えたら自分の行為が何をもたらすかを考えるようなまねはしないのがポピュリズムポピュリズムたる由縁だろう。


つまり両者が成立する要件は絶対的な主観主義だと言えるし、意味論なき日本語環境がそれに輪をかけているのだろう。やだわ、とは思うけどしょーがない、そうなんだからと私は自分に言う。

で、この大きな例は、「パシフィストからポピュリズムへ」と変更しているのにもかかわらず、The Economistの表現を借りるなら、「法的、デモクラシー的に重要なimplication(意味、示唆、影響、徴候)」を形成しているのにもかかわらず、そこに争点を見いだせない人がどうやら多いらしいということだろう。「なし崩し」に弱い。


「なし崩し」状況というのは、この言語が持つ穏やかそうな外見とは関係なく、法秩序の崩壊だ。仮説的にせよ打ち立てたcriterion、standard、principleなんでもいいけどそれら概算で法と呼ぶべきものを、否定にせよ肯定にせよ依りどころにできないという意味で、無法だ。

さてしかし、だからといってでは日本が無法地帯になっているかというと、そういうものでもない・・・。

が、本当にそうなのか。


従来、ここで、そうだ本当だとは誰もいわない、つまり日本といえば治安がよくよく整理された国でと誰でも言うがために、無法だとは叫ばれはしなかった。また、集団主義的だとさえ言われるわけだから、個人の主観主義的行動が爆発していると考える契機はさらに失われる。実際、身体的には安全な気はする。


しかしながら、そうなんだろうか。それはただタブーを侵さないがために誰も危険な目には合わないということじゃないのか。だとしたら、それは無法でないのでなく、リスク回避の結果にすぎないのかもしれない。多分ここ10年ほど「閉塞感」という文字を見ない時はないほどの状況が出来しているのは偶然ではないだろう。


[補足:やけにうっとうしい書き方をしているので補足。この頃何も言えないなともし思うことがないのだったら、それはとても幸福な生き方をしているのに違いないと私は皮肉を込めて言う、と、どう書いてもやっかいだったかしら?]