矛盾の総本家を見送る準備はできているか

夕べ自民党はもういいと書いたものの、やっぱりよくはないのだ。なぜなら自民党こそが日本そのものだったのだから。この渾身の錯誤、満身での誤謬こそが日本だったのではないのかと思うのだ。


私はこれを錯誤と書いているように、そこにあるものを明らかな矛盾とかなり昔から感じていたように思う。列記して何がどうなったかを考える以前に何かへんな話しだと。おそらく私がどうしても「戦後思想」なるものに真面目に取り組めないのはそこにあったのだろうかと今なら思う。つまりこれらは矛盾を呑み込もうという営みだったのではないのかと考えているのだ。非常に難解な小説やエッセイといった物語が日本で大量に出回るある種の心理的な側面はここにあるのかもしれない。物語は矛盾を呑み込ませる。解明はしない。分析的知性ではない(だからnovelistは一般に知識人とは言われない)。

なんてことはまぁそのうちいろいろ考えるとして、そこに矛盾があることを考えるよりも前に、こりゃもう崩壊へと進むのかと思わせた事件が今日現前していた。



国松長官銃撃事件、オウム元幹部ら強制捜査へ 警視庁
http://www.asahi.com/national/update/0707/004.html


書かれていることだけから見れば95年から今までどうして何もできなかったのか理解できない。


考えてみればこのあたりから、ニュースというものがガチンコのnewsではなくなって来ていた気もするんだなぁと思い出す。一体なんだったのだ、95年という年は…。


と、ついつい気分は追悼(笑)。だってよしんば自民党が勝ったとしても、もうあれは昔のそれではない。というか昔も色々汚れ仕事をしてきたんだろうから変わらないはずなのだ。いやしかし、何かが大きく変わりそうな気はとてもする。よしんば勝ってもね。


壊れていくとなると何かこう、寂しい気分になる。だけど別に無くなるわけじゃなくて政権交代が普通になるだけだ。1)


そして、攘夷派が近年台頭したのは(私の定義だが)、交代、交替ができなかったことと関係があるだろうと考えればこれはやっぱり結構なおとには違いない。そう、transfer(乗り換える、譲渡、変換する)を通じて価値を抽象化する作業ができなかったということか。近代じゃない(泣)。でもこれが日本的だったんだよなぁとまた言う。



1) 普通になるまでに拮抗状態というより不安定状態が出来てそれを超えて適度なバランスが形成されるのが最も好ましいと思う。そうすりゃ改作可能性が高まるから。最悪なのは、自民党の変わりに自民党と同じ前近代志向の民主党がその地に着くこと。これじゃ全く何の意味もない。したがって、選挙はここから5年ぐらいはずっとみんなマチマチに投票するのがもっともいいのじゃないかと私は考える。


大マスコミは二大政党制を誘導しているとしか思えない状況が続いているけど、馬鹿いってんじゃねーよ、と私は思う。そんな頭なら豆腐でもつっこんでおけ、ぐらいも思う。二大政党制が機能するほどに拮抗可能な、言葉を変えれば他党、他者との合議を理解している党は現在のところ1つもない。それは彼らの資質によるわけでなく、これまでそうした議会運営を経験していないからだ。だから、この中から議会制民主主義にフィットした政党群が形成され、その最後にもし二大になるならそれもよし、だがその頃どうなっているかまで心配できない。今は早く議会制民主主義体制を獲得することだ。いつなんだ、いったい!


そういうわけで、自民の変わりの民主だけは勘弁してください。キャッチフレーズは、譲渡可能政権概論履修後の政党政治を創ろう! でしょうか。あはは。