2004年版 攘夷か開国か

3日前に、日本の左右は何なのだ、を書いて、結局社会的な再配分のシステムなんてどうでもいいのではないかと書いたその続き。一体日本人は何を巡って争っているのか。

攘夷か開国かと書いたのは冗談でもなくて、結局この2つが今も生きている。少なくともそう分類して考察することは可能ではないかと思うのだ。ざっと並べると、


(1) 攘夷 尊王
(2) 攘夷 共和派
(3) 開国 尊王
(4) 開国 共和派
(5) 開国 解体派


注意事項は、攘夷は、夷狄を打ち払うにせよ物理的に絶対夷狄と交流しないという意味ではない。これは、異なった価値観があった場合どうするかの心理的態度のインデックス。

すなわち、攘夷は、何がなんでも日本だ、日本的であるべきだ、たとえ不都合であっても(それが伝統だ、文化だ)の主張が強い。開国は変化是認。この中には自己の社会の自然な変化を見越すことから、どこかのモデルを取り込んでしまうものまで含まれる。

尊王か共和は、身分社会に対しての寛容度。

身分は血統身分だけでなく、金銭身分もあれば、知識差異による身分なども含まれる。その意味で通常より広い。尊王派は、いろんな人がいる、の言辞のうちに生まれながらにいろいろ差もあるしね、を包含し得る。対して共和派は、どんなものであれ絶対平等。ある意味で前者が現実主義、後者を理想主義と考えてもいい。

試みに、ま、いい加減に、大メディアをあてはめると、
(1)サンケイ、(2)読売、(3)なし*2)、(4)朝日
なんてのはどうでしょう。

(5)は、行き過ぎた「左翼」(現在使用されている言葉の意味で)の人たちに見られるもので、国家とか民族の枠である程度区切ってものを考えることにあらゆる意味で拒否感がある。私はこの人たちはどうやって文化を考えているのか常に不思議とするものだ。*1)

政党はどうか。きれいに対応するものは何もない。各党個人でみたらまちまち。

で、いうところの全共闘世代というのは、ほぼみんな(2)なんじゃないのかな。
共和派だというところで普遍理念に合致しているようでいて、攘夷思想が強いからはたからみると一人よがりに見える。

「伝統」というのは扱いが難しい。なぜなら自己の変革をも吸収してしまい、結果「退行」を導き得るから。


1) 読み直して1つ気がついた。だからどこかで必ずマルクスに行き着いてますね、あなた、といった人びとは「民族」に過剰な期待をするのかもしれない。

[補足:これでは意味がわからない。民族ならOKで国家ならダメというわけのわからない状態になっているのがいわゆる一般に今現在左翼と言われている人ではないかと思えるのだが、もしそれが左翼(くどいが現在の使用環境で)というのなら、個人をベースで考えないと辻褄があわないはずなのだ。このへんの矛盾をどう考えているのだろう? 帝国主義ものとかぶっているのだろうか? もしくは、過剰に国家を無定見な権力主体と規定しているということか。であればそれはその意味で自分の頭が随分と前近代的であることを露呈しているのにすぎない。あんたが主体で国家をつくってんだよ! 敵視してどうすんねん?ではあるのだ。

私はこれを日本の様子のみとして言っているのではなくてアメリカに関してもそう思う。もちろん世界中にこういう人はいるんだけど。

2) 代表的な新聞あるいはマスコミと呼ばれる何かはないのだが、実際にはここに入る層は団塊の前にも後ろにも続々じゃないのかと思うのだ。
つまり、開国というのは、他者の視点、行為を自己のものと、そして自己の変化の可能性と相対化しつつ眺める術を持っており、選択は自分にあるのもコンセンサス(選択の誤りが自己に跳ね返るのも含む)、でもって、そうはいってもいろんな差異は解消しようにも存在すると考えている意味では若干保守にかかる。こんなもんじゃない?