左右のあるカナダの選挙を見ながら考えた

長らく読んでくださっている人は知っていると思うのだが、私は日本で言う「左」というのが何を表しているのかというのをしばしば考えていた。どう考えてもヨーロッパやカナダにある左翼というのと接合できないから。

一般にヨーロッパ、カナダで使用されているのは、
右  小さな政府  代表モデル アメリ
左  政府でかい  代表モデル ソ連

しかし、誰もソ連になりたかったわけではなくて、所得の再配分が小さい代表がアメリカで、でかいのはソ連だ、といっていただけだ。だからソ連がなくなってもまぁ動向は変わったけど結果的にはどこでもそれら左勢力が残存しているし、初期設定価から考えれば1920年との比較においてずっと左に依ったところにみんないる、と言ってもいいぐらいだ。

では日本のは何なのか。ひとつの答えは、冷戦時代の枠組みそのままで、これら社会内部動向とは関係がない、ってことか。

つまり、アメリカに正は右、負は左という分岐線。

中身についたんじゃなくて、代表モデルについた、と。

だから去年、イラクでの戦争賛否の時に戦争反対だった人がみんなまとめて「左」と目されたのはこの例で考えればとてもリーズナブル。そもそも内容に依ってなくて問題はアメリカか否かなんだから。

そう考えてくると簡単すぎて馬鹿みたいで、今日もまた鼻血も出ない。だが問題は、なぜこれがこのままなのか、だ。

冷戦構造時代に日本の自己を獲得してしまったツケをまだ払ってないから、かなぁ。

つまり、「西側諸国の一員として」なる言辞に代表されるような発想、幻想、理想で日本を規定しつつ現代政治なるものを開始したわけだが、「西側諸国の一員として」が今度は「先進国」になってG8の一角になってその詐術が続いている、と。しかしこれはもともとヨーロッパ中心政治の分断を措定する言い方としての東西があっただけで、それは一過性のものだった。実にまったく単なる言辞だし考えてみればそれしかないのだ。

私は1990年に中欧に行ってしみじみ、東西って何だったのだろうかと思った。強いていうなら貨幣に対する考え方が東西欧州で差異はあるが、それは東西が作ったのではなく歴史によっているのだし、またその差異は日本でも見いだし得る以上冷戦が作った東西とは関係ない。言うなれば非常に独自だった西欧及び米州がただそう言う代わりに「西」と自分を規定していただけで、そこに日本やら韓国が付いている理由は全くない。

ところが日本の現代思想を形成する時間は、その一過性の時間の中にしかない。

つまり私たちはその一過性の時代を包括し得る政治思想を持っていないかもしれないのだ。

とはいえ、日本でも70年代より前に政治的に熱い季節があった。それを現在から見た時なんだかやんちゃな全共闘の世代のように描くのはモノ事の一面しか見ていない。あの時代までに労基法やら職業安定法やらといった基本的な雇用環境及び雇用慣行を巡ってなされたことがなかったなら、私のバブルOL時代はもっと別のものになっていただろうと大手町でも気づいたし、有楽町でも銀座でも(私が働いていた場所だが)しばしば考えた。

しかしこれは左右かということよりも、今から考えれば近代か前近代の問題だと考えた方が正しく、その根幹は身分制秩序崩壊の残滓がまだそこにあったことだっただろうと思う。

ってことは、詐術内左翼の役割は、前近代的事情を取っ払うためのカウンター勢力だった。それも、最初からオレたちは立派にアメリカと同じ「西側諸国の一員だ」と言い張りながらのそれなのだから、それは最初から裏方なのだ。

で、今の人がそれほどこの時代を思い出さなくなったのは裏の抗争によってほぼ完璧に身分制秩序が崩壊して、それがデフォルトになって、人びとはその前の時代がそこにあったことを思い出さなくなったからだ。

つまり、詐術内の左右に、身分制秩序崩壊残滓整理が被っていたという、面倒な時代がそこにあって、後者がある程度整理がついてもう闘争の理由がなくなった頃国際的な左右対立もなくなった。だもんで、一気に政治問題を仕切る理屈がなくなってしまった。いや、再分配の話しに行けばいいんじゃないの、と誰しも考えれるがそれができない訳がある。

すでにそこまでですっかり大きな政府になっており、誰言うこともなく知られている日本の密かな真実、結構完璧な社会主義国家が現出していたからだ。しかもその大きな政府を統括する人びとが、オレたちは断固左ではありませと言うのだ。

と左は、他にいきようがないから教育とか平和教育にターゲットが集中的に向かい、歯止めのなく爆走している人もいる。どちらも、国内経済、取り分け所得の再配分に対しての左右なのだという基本線を全然守ってない姿がここにある。

さて、どうしたらいいんだろう? 

思うに、日本を統括する原理は、結局所得になど置かないで、たとえば攘夷か開国かといった別の切り口で立てた方がいいのではなかろうか。経済は性に合わんのじゃないのか。