君は社会の牛となれ

こんにちは。議会フェチの川上です。
いやまったく、たまげた国会になっている様子。

(6/3)年金法案成立へ、与党が参院委で採決強行
http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt68/20040603AS1E0300X03062004.html

これがまずびっくり。
どうせ数で考えれば勝ちに決まっているのになぜもうちょっと待てない? これが解せない。何か爆弾があったのか? そうは見えないんだけど、そう考えなかったらあとは狂人の仕業としか思えない、これは。

で、次に牛歩(泣)。なんかこう、辛いものがある。

時間のばしの野党議員の長い質疑というのもあったらしいけど、こういう場合は、それ単体としてとてつもなく練り込まれた大演説をぶちかまさねばならないのではないのか? 人質よろしく議場を出られない人がそれだけいるのなら、私ならもっけの幸いとやる。聞かせてやる(笑)。

そういう志のあるような人もいないし、言葉が空虚な「場」と化しているからそんなこと思いもよらないのかな。しかし、どんな時でも言葉しか私たちには頼るものはないのです。私たちは身内でもなければ、知り合いでもないし、明日気が変わっても顔色を見ればわかるね、という同僚でもないのだから、言葉によって考えをまとめて、合意を見いださなければ何もはじまらない。

で、演説というのは、言葉を知っているだけでも事情をしっているだけでもできなくて、自分の中になぜこれをあなたの前で語るのかのロジックが無ければ続かない。

そしてこのロジックがあるからこそ、信念も生まれるのだし、政治家にとって最も必要なものはこの意味における信念というものだろう。信念をポッと生まれる頑固さや、意地のような即物的、即自的なものと誤解されては困る。

と考えると、ぼさっと牛歩なんてやっている人びとというのはやっぱり、どこか牛並なんだろうかなと思ったりはする。もとより審議拒否を屁とも思わないおっさん方は牛以下。いや、これでは牛に失礼だ。子牛に飲ませるべき乳を盗まれ続けている牛ほど私たちにとって有り難い生き物はないんだから。

言い直そう。君は社会の牛となれ。これが国会議員に求められる資質に違いない。