高度分断政策:和魂洋才

補足。大雑把には先の見通しを変更しないが、補足として、経済は倫理だとして、その倫理が異なるのだから日本は欧米型と交わらずとも良いとも考えられる。

しかしここが問題なのは、誰でも知っている通り世界中からモノを買わねば生きてさえいけず、モノを売らねばそれを買うことさえできないという循環の中で生きている私たちは、どう考えてもこの経済の仕組みを利用している。

にもかかわらず、多くの場合語られる文の中ではこのことが忘却される。ガイコクが日本を狙っている式の発想は、ガイコクの市場やら安価な製品やらを狙っている現状をすっかり押し入れに入れてなんとも思わない。

ちろんここで、基本的には国内だけで生きることを目標としていて、輸出入は余技であるという現状が志向されているのならこれで辻褄があう。が、そこまでの覚悟をしている人がどれだけいるだろう?

雑に言って、ふるまいが酷く国際ビジネス的なあり方をしているのにもかかわらず、本心、意図は鎖国的だ。自分は自分で成り立っているんだから誰にも文句を言わせない式。

総体としては、もしそれが一人の人間なら統合失調症的だ。だがこの見取りは正しくない。なぜなら、分業化しているから、と私は考える。つまり、経済を論じる人は経済の話をして、人々も会社にいったら、買い叩くことを考えて普通である、対して、文学、文芸一般の人はこういう話にまるで関心がなく、人々は会社を出たらそっちに頭をつっこんで自己を同化させる。あ、だから、分業化している言論の売り手は統合失調を来してはいないが、その言論環境に曝される庶民は、好むと好まざるとにかかわらず統合失調を来す、ということになるのか。やだな、これ。

これも和魂洋才だね。

で、笑ってすまないのは、その分業化のおかげで、文芸関係者は現実に行われていることに効果的に対応できずより日本的なもの、我々独自のものぉ!に収斂されていく。リアリティなし。また、経済関係者は、その日本的なるものに依拠しないたいめにまったく道徳フリー、倫理関係なしでOKになる。無給の残業が発生し雇用に関する公正さを討議できないことの根本的な理由はここにあるだろう。

和魂洋才とは高度な分断政策ではなかったのか。