根本的な問題が回避され続けているこの構図

まったく興味深い。

式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu71.htm

このページは様々な記事をリンクして、その下にサイトの主催者がコメントを付けて行っていて、もう随分長いこと続いてらっしゃる。私も大分前に一回リンクされていた(丁寧な御挨拶をいただきました)ことがあって驚いたことがあった。

で、今日はそこで、

藤井厳喜(著) 「新円切替」 (光文社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/433493336X/250-0848381-6290657

このお話。
中身は、今となってはもう珍しいこともない、日本の資本主義は少なくとも欧米型と違っていて、根本的に違うのは現今のそれが金融資本主義で、これは産業資本主義とは違い、そして構造的にはそれが勝つ。金融>産業だと。で、レーニンが帝国いついて考えたのもこのことがわかったからだと。

全然珍しくもなんともなく、かつ、私の知る限りでもこの15年、古い本を見るとこの30年実は同じことを多くの著者が言っている。にもかかわらず、いや〜ホントに変わらない。

で、私がこの1年考えているのは、これら言説がなぜ日本の中で受け入れられることができないのかということで、推測可能な理由は一つは、それを受け入れる=欧米の軍門に下る、という集団的無意識があるから、もう一つは、それを近代資本主義とだけ見てしまうからではないか、というもの。そのうち後者がより深刻ではないかと私は考えている。

というのも、これって結局、自由主義一般の問題とかなりのところ表裏なわけで、言うところの欧米型資本主義を一蹴してしまうことはここに胚胎可能な倫理問題をも同時に投げてしまうことになる。少なくとも多/他諸国民と同じ土俵に乗れない*)。つまり、なんだっけ、産湯を流して赤ん坊まで捨てるとか、そういう感じ。

*欧米型と書くと欧米しかやっていないようだが、それを土壌に表現型は異なっていても今や世界中が同じ土俵に乗ってるでしょ、だって。

なぜこうなるのか。多分、小さくない1つの理由は経済は経済専門家に、文化は文芸屋さんに語らせているからではないのか? 

しかし、経済は実のところ倫理なのだよ。