フタをする・フタをされる

二三か月前の日本のいわゆるビジネス誌というやつを読む機会に恵まれて読んだ。面白かった。が、その中で、しばらくうなってしまった記事があった。

昔日テレでキャスターをやってた桜井よし子さんのページだったのだが、靖国神社A級戦犯を祀るなというのはおかしいという。その理由は、日本人なら国のために、家族や共同体のために死んで行った人をないがしろにするべきじゃない。そもそもA級という判定はあの不道徳な(そうは言ってないけど)東京裁判で決まっただけで、それを日本人は支持するべきではない、のだそうだった。その他靖国神社分祀の見解なども引いていたが、私は神社仏閣オタクなので、馬鹿なのかこの人たちは、という見解を持ったことを大声で言っておくが論評に価しないのでパス。

さて氏の見解は、日本を代表するビジネス誌(高級って意味じゃない駅売りで数が裁けてるという意味)に出るだけあって結構支持されているんだろうな、と思う。

なるほど、先人の苦労をおもいやれというのは結構だ。私もそう思う。中東で苦労して関係を築いた人のことを考えろ、馬鹿者とこの1年何度思ったかしれない。

いやそんなことはいい。私がうなったのは、これはこれで、どこかと「連携」ありだなと思ったこと。

つまり、こういやって「先人を思え」的にちょっと人が正面から反対するには気がさすといったレトリックを使うと、ここには「フタ」ができる。これ以上進みませんね。

ではこのまま進んだらどうなるか、と考えてみる、シミュレートしてみる、外側からアウトサイダー(相手)を含めて全体を見る発想が欠ける=客観性をまったく失う。

例えば、A級を外して、「みんな一緒に」的に国民も軍人も指導者もなくしたら、私たちの国はあの戦争をどう総括したのか、の結論がなくなるから自分でこしらえないとならない。やるならやりましょうでいいですが、「フタ」されてんだから、しませんね、きっと。そんなことは必要ないんだ、という気にさえなるでしょう。先人を思うことは人間の本義だ、とか、いくらでも後追いでものすごく立派な理屈が付くでしょうから尚引き返せない。

すると、内部的にはこれで平和。しかしところがどっこい必ずなんか言われる、なんかつけ込まれる事態が来ますね。当然ですね、自分が存在したために相手にとっては邪魔とか妨害とかになるのが人間というものだが、そのメカニズムを無視するようなマインド・セットを作っているんだから。人間は自由だが、同時にモノである、という理屈はとても大事。自分は透明な存在になったつもりでいても、相手から見たら、どけよこのやろーである可能性を常に持つ。

で、「フタ」はこの時、この状況を全体としては把握させないために働くわけです。ですから、このためにあえてレトリックを使っているのではないですか? レトリックというより、殆どトリックだと気づかないで読んでしまうと、氏はまっすぐに日本人としての心情告白、みたいに見えるんだと思うんですが、私にはそうは思えなかった。フタを作るために働いている人が、彼女だけではなくて、いる、ただそう思った。

そしてそれは右にも左にもいて、両者に共通しているのは絶対の心情主義。

ま、こういうのが目立つようになっているということは、既に何か仕掛けられているという意味だ。