二重に特異的で生き残れるのか/根本的な差異をあきらめる

今日は朝からニュースを見ていない。いい日だ。

さて先週書いた翻訳という事業をちゃんと国家規模にするべきだの続き。

なぜそう考えるかと言うと、言うまでもないんだろうけど、このまま商業ベースだけでやっていたら、特定の本、論説が、時宜にまったく適さない形で送られて来る事態を座視しないとならないから。

いいじゃないか、日本人が自分で考えれば、と、もちろんそうなのです。それで足りる部分がもし8:2とか7:3ならそれでいい。しかし事態はそのようにはなっていない。

ジャーナリズムもそうだが、もっとタイムスパンの長いアカデミズムもまた時宜に適さない状況を永々と続けている。およそいっそ中世の論考をやっているような人はそれでもいいと思うけど、それ以外の場合、特に政治的、社会学的なものに関係するもの(となったら実はいわゆる理系一般は全部ここに入る。なぜなら予算が付かないとできない仕事ばっかりだから)。

もちろん、誰のためにもならない著作物というはなくて、必ずどこかで誰かを救っているとは思う。だからとても根本的には流れにまかせよというのは正しい。

が、それでは生き残れないというのも本当だと思うわけだ。

今思い付く(というか私にとって興味深いだけだが)ものをあげれば、去年の終わりM ウォルツァーの「寛容について」という本が訳されていた。キーは寛容だが、要するに移民社会が可能的に抱える寛容さについて語っている。しかし今アメリカをモデルにしたこの著作物を読んで、そうだ寛容は正しいと思えるのなら、その人は理念の世界にすまっているのだろう。

普通は、だけどそれでアメリカは失敗してるんだ→やっぱり寛容はダメだ、となるのがオチではないかな。だからまずタイミングが悪い。911の前に書かれたものをひっぱりだして、あたかも「本当は」と言ったってさ、だ。実際できなかったのだからその理論は批判的に読まれる他はないはずだ。が、そのためにはまた何年もかかるだろう。

また方向性も悪い。失敗している人ではなくて、結構成功している国が隣にあったりするんだが、こっちは引き出されない。引き合いを作りながら解説できる人も枯渇してる。

要するに、ターゲットが特異的で、しかもタイムラグを必ず受容するという意味でも特異的。これじゃ共倒れになる。つまりこれもまた、私のアメリカ一辺倒批判になってしまったわ(^.^;;。でも、もう時間がないと思うんだもの。