なんでこんな両極端を比べるのだ?(私もだが)

先のショックな出来事への若干の補足。

A-1 しかしアメリカだって先年来やまのようにすごい「しめつけ」やら圧迫やらをやっているではないか。

Q-1 その通り。しかし違うことが1つある。それは、そのようにして「アメリカ人」になれとか、そうでなければ「アメリカ人」ではない、というのが、たとえ言われたとしても、日本で行われるほどの稠密度は事実上あり得ないこと。

つまり見た目も出自も違うからこそ、「差別」されるんだ、というのも間違いではないが、同じことは結局みんな違う人だからとして遇されることにも繋がっている。ここをどう泳ぐかは、回りにどんな人がいるかにかかっていると言っていいでしょう。

日本の今回がきつすぎるのは、左右両方の側が「日本人は」を主語にして語っていること。どちらも非常によく似ている。オレの頭の中の日本人像が正しいと言い張っていて、どちらも異論を最大限吸収できる仕組みを発想していない。

だいたい、どうあっても9割5分ぐらいはオレこそ日本人だぜ、って人ばっかりなのだよ。だとしたら現状は相当にまちまちの日本人(a Japanese x 1億人)がいる、であっていいはずなのに、両方の側が「日本人」という掌中の玉、the Japaneseの規範型の正邪を決しているかのようだ。「いつから日本人は」とか「日本人には」と発語していておかしいと思わなくなっている人がとても多い。ある意味で信条主義だが、それ以上に究極の心情主義を誘発していることにawareになるべきだ。

結果は、思想統制というのか考え方の統制にしかならない。これは政治的な意味での思想統制などを軽く超えている。政治的判断ならまだどれだけマシだかわからない。「この政権」が去るのを待てばいいのだから。

前から気になっているのだが、「日本人は」という主語を本当に使い得るのは、外から日本を眺め、外から日本人という集団を見ている人か、でなければ統計的に誤差を内包しつつも一般化するしかないからそうしている人ぐらいしか正統ではないと思うんだが。私たちが心配するのは、私たちのうちの誰かであって、全体としての日本人なんか心配できるわけもない。従って、私が心配するa Japanese× N人を語るのに「日本人」というのは不必要なのだ。

言い方を変えれば、日本人がいると考える人は、プラトンでも読んで、イデアに呑まれるってどういうこと?を考えてみましょう(ところが、プラトンはなにはさておき素晴らしいと言ってしまう人がいるからまったくやっかいだ)。

あるいは、文学こそがネーションを決した、日本文学こそがネーションを作ったのだとかなんとか、柄谷行人先生(他意なし)が、たしか・・・「日本精神分析」で言っていたようないないような、だと思うのでこのへんから考えて・・・いや、このへんから考えると却って「日本人」に収斂される方が正しいみたいに思った人が80年代以降多かったからこうなったとも言えるのか? じゃあ、これは読まない(笑)。学問として、筋として、説としての正しさを現実上の妥当さと取り違えてはいかんよなぁ。筋としてなら、ヒュームが正しいといったところで現実にアプライできないと知ったからこそ大英帝国は生きたのかと考えてみるのも一興か。蛇足だが。


A-1 しかしそれでも、アメリカで反戦運動なんかしようものなら命にかかわるのではないのか。

Q-2 その通りであろう、と深く理解しあっているのがアメリカという国の恐ろしいところかも。政府及び誰だか知らない誰かに睨まれたら最後、イジメなど発生する余地もなく死んでいるかもしれないとは、多分、大抵の人が覚悟していることかもしれない。

しかしながら、だからこそ抗議はなんであれ命がけだというコンセンサスが醸成されていることもまた嘘ではないでしょう。

究極の政治意志とバッティングした場合には誰にも知られずに死ぬことになりますが、そこまでの間に、しかしながらかなりの間がある。

それは、あくまで正統(ただしアメリカにとって)であることを貫けば、それに対して政府は文句を出せないということ。だから早めにあらゆる手段を使って、オレは声をあげている!!と知らせてまわる。これは、道路端にATMがあるのと同じ発想でしょう。人の間で安心を得る。

以上、とてつもなく「過酷」です?靴?係桐?饗Г鮠?蕕覆い海箸鵬礎佑鮓?い世垢海箸鮨?犬討い訖佑?◆屮▲瓮螢?諭廚箸?崙?椰諭廚法屬覆襦廖author ized by CURRENT government=「現」政権の権威によって)ことよりも正しいと考える人がいることはいる。

つまるところ、個人でもの申すことがどうしたって前提だからだ。

日米じゃ例が極端すぎる。かたや「国」成分が足らず「野」が大きすぎ、方やその反対。

カナダも入れよう(笑)。

*この間いろんなところを読んで、もう一つショックを受けた。「アメリカとカナダのような」といった括りをする人がこれでもかという程多い。これ一つを見ても、世界中で何が起こっているのかを結局ちゃんと見てなんかいない人が多いってこと?ではあるのだ。近いから同じ、歴史的に一緒だから同じぐらいの調子なのだろうか。しかしそれを言うのなら、他地域から見たら、中国も韓国も日本も同じって視点を私たちはまったく拒否できないわけだが。意外な人が意外なほど視点があらっぽいのだなとわかったことは収穫だった。