もし救援しないとしたら・・・

アメリカ在住歴の長い友達とさっき電話をしたら、彼女は最初、どうしてここで「自己責任」なるものが出て来るのかピンと来なかったと言っていた。

彼女をガイジンと見立てるのはおかしいが、北米で普通に暮らしていたらまずそんなものだろうと思う。

で、またぞろ考えた。逆に考えてみよう。

例えば、「テロリスト」なる人に誘拐された個人が、万事取り揃えて日本を出発していたとする。つまり、「私が死すとも自由は死なじ。取り乱すな。たとえ地の果てで果つるとも我後悔せじ。母上にもお覚悟を。直子一生のお願いです」なる遺書をしたためていたとする。

しかし、「そういうわけで川上直子さんは誘拐されましたが、遺書がありますので、おっとまだご存命なのに遺書とは失礼ですが、ま、これは文書の名前でご本人がお付けになったものですがね、とにかくそういうわけで日本国政府は救援にはまいりません」

と言えるのか?

これは心情の問題でありそうでもない。もし「そういうわけで・・・」を日本国が採択した場合、日本国とはなんぞやの疑問を招来せずにはおかないと私は考えるし、もしそうなら、日本国を構成している私たちは一体どんな理由で日本国民であるのかが相当に怪しいものになる・はずなのだ。もし私たちが部族共同体に暮らしているのでなければ。

現行ある国家体制が、もし、部族統治の自然な、未開な、あるいは他者、侵入者というものが存在しないために、別に国家という仕組みを取り立てて持つ必要がない場合に形成されているものではない、としたら、その国家には、国民を、他者の手から救出しないという選択肢はないはずなのだ。

(ここから言えることは、国家とは他者の存在に依存していること、自己とは他者に依存する概念だというのと同じだ)

ところが、今回図らずも露呈したことによれば、少なからぬ人々は日本国という組織に対して構成員の救援をなさずともよいと考えている。

救出しなかったら、ガイコクが困るって視点が完全に欠落している、その意味でこういう意見を認めると、国家主体が国際社会にとって著しく無責任になるというのも見失われている。

これはどうしたことだろう。一言でいって、日本という場は、場であって国家ではないということか。 

部族共同体であり、かつ、統治理論としての日本教を有するみたいな感じかなぁ。