なぜネオコン/リベラルモデルなのか

ふたつの日本/イラク日本人人質事件編/園田 義明
http://www.yorozubp.com/0404/040422.htm

二つの日本だが、それは日本が独自に割れているというよりも、二つのアメリカがそのまま移設される形で、すなわちネオコンとリベラルに当たるものの極東代理人の形で日本が二つになっている様を描いている。面白いです。

それなりに私もそうだなとは思ったりはするのだが、それは理論的には比較的うなづけてしまう一方で、どうも実地になると、そうまではっきりは言えないような気が私はしている。園田さんの論説にいちゃもんを付けるつもりではないと念のため申し添えるが。

つまり、ネオコンの極東版がサンケイ、読売で、リベラルが朝日、毎日だ、となる。

多分、そうなんだろう。

しかし、それはなんというか、並みいる果物群の中で、リンゴかミカンしか考えていないみたいな感じもしてしまうのだ。

両方とももう食べたくないって言ってるのに尚それしかないと言われているようでちょっとげっそり。

どうしてこんなことになるのかと言えば、むしろ事態は逆で、アメリカ→日本で風が不可抗力的に吹くというよりは、日本が、なんによらずアメリカと同列で価値感を形成してしまう、したい、こっちの力の方が強いんじゃないかなと思うわけだ。

で、この形成に対して逆に働こうとすると、それはネオコン/リベラルモデルそのものに対して抗することにもなる。

ところが、いや、だから、そうはさせてもらえない。「ネオコン/リベラルモデル」は2004年にあっては日本の人々が等しく巻き込まれなくてはならない「公論」であるかのようだ。

当然そう考えない人もいっぱいいるわけだ。リンゴとミカン以外にも、ブドウが好きとかバナナが好きって人もいるんだから。

サンケイもどうかと思うけど、朝日のあのハレンチなまでの事実無根作戦にげっそり来ている人だって少なくはない。ここは極端に政治的すぎて、あきらかに人を「リード」しようとしていると考えて嫌気がさす人だっているだろう。

要するに、「公論」に反発してもいい、そうじゃなく考えようという人たちの拠点が確保されていないわけではあるのよね。こういうのをalternativesというのだろうが、日本とアメリカではそれは大分難しそうだ。

そう、本家が難しいのに、なぜそこに合わせて型を作ろうとするのか? こっちの方がより深く陰謀的だと思うが。