感謝と謝罪の周縁が重なっている


謝罪と感謝、ごめんなさいとありがとうの周縁は、日本人の場合著しく重なっている、とは私の仮説であり、しばしば実地検証を行っている。

そしてこの重なりぐあいが、同じく日本人といっても相当程度に乖離が見られ、きっちり感謝とごめんが分かれている人もいれば、殆ど同じでただ場に応じて言葉が違うだけ、心理は同じという人もいる(例:お葬式では、なんによらず、すみません、わざわざ>ありがとう、わざわざ、結婚式ならこの逆とか)。

謝罪に関しては前に書いたことがあるけど、謝罪とは西洋人(西洋語範囲の語を日用語とする人々という意味でヨーロッパ人とは限定しない)にとっては、言い訳であり弁明だ。

対して、日本人の場合、謝罪となれば、弁明一切抜きでオレが悪いでなければならない。そうでなければ謝罪は成立しない。

以下、もしご興味があれば、「謝罪と弁明」を読んでください。
http://kawakami.netfirms.com/t081903apology.html

で、まぁそういうことを書きたくなったのも、人質になった3人とその家族が、いつからか謝罪モードに突入し、そのままきっと、謝罪一辺倒帰国になるんだろうな、と思われるから。

私としては、この場合は、西洋人型の謝罪を希望する。弁明させよ、目一杯、と。でなければ何も明らかにならない。

さてしかし、謝罪と感謝は最初に書いた通り、実は著しい重なりを見せているのだ。

思うに、彼らがすべきなのは感謝なのではなかろうか。

ありがとうございました、みなさんのおかげで帰ってこれました、どうもほんとうにありがとう、

と言い出したら、弁明の余地が生まれるのではないのか。

謝罪からはじまれば、おそらく謝ったという一点から、今度はそこから、謝ったのだから悪い人になるだろう。結構堅い予想だと思う。

私がこうしたことを書くのは、別に断るまでもないが彼らをかばいたいなどという珍妙な動機ではない。謝罪をめぐって、わけのわからない線引きをすることを絶対避けるべきだからだ。

謝ったのだから、もういいでしょう、で話が終わる可能性も指摘できる。これも同様に全く事態解明にとってアゲインストだ。

しかしなぜ謝罪と感謝の周縁が重なるのか・・・これは私の仮説立証から立論へのお楽しみだからそのうち考える。