たとえば

こんな比較はどうだろうか。
上で参照した記事をともあれ開けてみてください。読まずとも。

そうするとそこには27の文章(もしくはパラグラフ)がある。とても長い。

対して、ほぼ同様のことを伝えたかった下の日本の記事は、これに対して7つに「まとまっている」。

これはつまり、話をはしょっている、という意味だ。わかりやくす日本の皆様に伝えるためのこれが記事を書くプロの仕事だ、という解釈も成り立つが、別の意味では、可能的には、断定していないものを、「まとめ」掛かりが、親切にも断定している場合もあるわけだ。

たとえば、
MADRID, Spain (AP) - Authorities are investigating whether the terrorist bombings in Madrid last week and in Casablanca last year may be linked, focusing on a Moroccan who was arrested in Spain over the weekend, Moroccan and Spanish officials told The Associated Press today

最初の一文では、スペイン当局は、テロリスト爆破事件と昨年のカサブランカが、関係しているかもしれないと調査している、とある。このAP伝だというのも一目瞭然。

どうしてその後そんなに長いのかといえば、それなりに状況証拠(っても人物関係線だが)を詰めたいから。

次に日本のやつでは、
マドリード山科武司】マドリードで11日に発生した列車同時爆破テロ事件は、捜査当局の15日まで調べで、国際テロ組織アルカイダに関連する組織・人物がかかわっている可能性が濃厚になった。

いつのまにか、「かかわっている可能性が濃厚になった」となる。

ということは、この人は、このニュアンスを埋めなければならない。AP伝がすべてではないから、異説はいいが、ソースを開示して自分で埋めないとならない。しかし、その下には残りは6つの文しかない。

で、そんな真似はできていないわけだ。

ってことは、この記事は、とても主観的でソース足り得ないと書かれても仕方がない。

こうやってできていく「アルカイダ」像@日本語環境を私が憂うのは、そう無理もないことだと思うわけですが。どうでしょう?