ネーションを忘れなかった人

一昨日、網野氏のご本などにも出てくるアジールね、と書いた時、まさかその日その網野氏が亡くなっていたなどとは私に知る由もない。

中世史の歴史家、網野善彦氏が死去
http://www.nikkei.co.jp/news/okuyami/
20040227AS3G2702F27022004.html

驚きました。先週からちょっと気になったことがあって読み直していただけに、尚驚きました。

と書きながら、網野氏などというのは偉そうな書き方なんだが、いちいち先生と書くのもへんなような、しかし、網野さんでは会って知っているかのようだ。網野氏のご本、という言い方はなんとなく15年ぐらい前しばしば友達と言い合っ
ていた言い方で、懐かしくもあり、いくらか高揚するところもあって以来そんな言い方をしている。

と、こういう難しさ、良く言えば陰影が、悪くいえば酷く封建的な線引きが一つ一つの語に結びついているのが日本語。とても一筋縄ではいかない。それはそのまま歴史があるということでもあるし、同様に、なかなか変えられない、重しが
重いということでもあるんだろうと思う。

この時、様は目上に、さんは同輩に、先生は学校の先生専用に、といった、とても簡単な線引きをしてしまって、それが絶対だと主調すればどうなるか。すべての物の見方が変わってくるし、なくてもいい混乱が起こって、自分たちの側にあった秩序の感覚が怪しくなる(変えてはいけないという意味ではない)。

日本の社会は農民が主体だったのだという話もこれとどこか似てるのだと思う。ある時点でのある説に対して有効な仮説以上にはなれなかったものを、絶対視し、そこから理論を組むという屋上屋を重ねるような作業をもたらした。

そうして、考えてみれば、私たちの戯れ言の中にさえ生きているような事どもを「再発見」するためには網野氏のような(そうしてそのご本のような)深刻で、たゆまぬ努力が必要とされた。

私には、あと少し、あと少し時間があったのなら、きっと氏はもっと自由に、もっと闊達に構想して、私たちのネーションのベーシックを編み出してくれたのじゃないのかと、才能の多くを、本来そうあるべき以上に強固になった怪しげな主調を取り払うために費やされたのではないかと、それが残念でならない。そうして、だからこそ多くの感謝を贈りたい。