いや西洋はすごいからさ、と簡単だった

もうこうなったらなんでも思い付いたことを書いておこう、明治維新関係と思ってちゃらちゃら書いているんだけど、脱亜入欧路線について。これはミスター福沢の説で有名なわけだけど、これって維新の後になって仕方なしにこうなった、他のアジアは西洋化してる場合じゃない、日本だけでも、と考えたかのように読まれているような気がするけど、それは違うと思う。

殊にミスターの場合において。それは自伝なんかを読んでもわかるけど、井伊直弼だの安藤対馬守のだののその同じ時代にアメリカに行ったりヨーロッパ行ったりして、すでにすっかり気持ちよくなっているっていう感じがとてもする。日本なんか、ってか、幕府なんかダメに決まってるじゃんか、って最初から決まってる。しかも、洋行する前から。

それはそれなりに分かるわけで、門閥は親の敵だっていうのも理解できる。今の私たちは身分制秩序なしの時代にいるわけだから、そこから考えたらミスターは全うすぎる人に見えるだけだ。だけど、この視線が同時に、アジアだめ!を完全な規定路線にしているのもまちがいない。

しかも、この人は緒方洪庵のところで、漢方←儒学を徹底的に否定する、ってか、完全にバカにしつつ大きくなったという経緯もある。だから、とても自分もアジアなのだ、とは振り返えれない。

漢学の素養あったくせしてな〜とか思うんだが、それはお家の都合だから忘れちゃう、そういう身の軽さも彼らしいんだろうけど、こういうのは当人のその世代に関しては有効で、言ってみれば、諸々の悪条件を不満に思った世界各国の人がアメリカに移民に来てる、その時の心性を江戸末期に持っているって感じ。

移民の一世の人にとっては、自由とか自分は自分の可能性を確かめるために出て来たのだ、ってな話はいわば「信条」。自分を育ててくれた地域共同体とか果ては国立の学校機関を彼らは捨てている、タダノリなわけで、もし祖国がまだ貧であればあるほど、実際には絶対に心の中で「やましい」。だからこそ自由系統にしがみつく、こういう影の部分がある、と私は見ている@北米。(日本の移民の人には本体日本が勝ちあがってるからあてはまらないと思う。)

と、要するに、日本を個人としてモデル化すると、一義的に自由で、西欧近代でなければならない、ってのは、「信条」になるわけだ。

徹底庶韻慮?瓩?皀蹐暴个討董¬滅鬚た佑世隼廚Δ韻錨?悗覆靴箸呂泙気砲海凌諭


■2004/02/23 (月) よく考えたら全面的に偏っていたわけだ
国民国家とはなんぞやなどということを夕べ考えたもので、そうだと思って手元に持って来ていた哲学用語辞典なるものをひも解く。

でもこれはとっても簡単ないわゆる新書に入っているようなヤツで、なんでこれを持ってきたのか自分でもわからない。確か、おぼろ欧糞?韻任蓮⊆?害奮愀呂里發痢?湿緲朧賚困気鵑書くようなやつね、その並びは結構ピンと来る感じがして日本に帰った時、いっか軽いし、と思って持って来たようなところだった。

で、その国民国家関係の解説がすごい。殆ど目もあてられないくらい、これって要するにすべてマルクス主義者のための解説じゃないんですか?ってものだった。それ専門系の本じゃないよ、これ。

私自身としては哲学者としてのマルクスは、理論の精緻はともかく、位置が面白いと思うし、とても大事な展開をした人だと考えてはいる。それまで哲学者たちが別に現実と合おうとあうまいと追求してきた真理という概念を現実の場に接合するための実験をしたような人だなと思う。だけどここにロマン主義が接合したことと、ヘーゲルを借りすぎたんじゃないのか、によって、後に不幸な人になっている気がする。あれを真理と言わずに別の表現で行ってみるっていう手もあった気がする。もったいない。

それはいいとして、私がこれら国家関連項目についてマルクスモード目一杯の解説しかない、と気づく私は、世の中には異なった解説の方法もある、と知っているからだし、もっと別の言い方を自分でしたいからこそ参考に見たかった、という意味では既に既存のものでは納得できないと宣言しているわけだからこういう人には私がどんなにバカでも利口でもどんなものでも別に問題はない。しかし、もしこういうのばっかりしか目にしてなかったらどうなるんだろう? ちょっと恐い。

多分これは似た傾向なんだろうが、ルソー万歳式の教え方、あれはなんとかならんのかってのもある。one of themとして面白いだろうけど、一般意志を快く取り扱える人の気がしれない、と私は考えているので、ここからしか導入がないのだったら、これはいかんのじゃないか、って思ってる。カント万歳もあるな。その次にやや弱い程度でプラグマティズム万歳。結局、ここから抜けているのは経験主義ってことになるし、スケプティクスの吸収案もないな。


■2004/02/23 (月) しかし泣いてよむルソーもあるのだ

で、そういう軽々と超えちゃうネーション日本みたいなミスターがいる一方で、同時期を過ごした中には(ちょっと時代は下がるが)、

泣いて読むルソーの民約論

なんて言ってしまう人がいるわけだ。

これは本当に胸をうつ一言だと思う。私はその独白者に対してとても大きなシンパシーを感じるし、敬意も払う。

極論すれば、ミスターは自由系徳目で、個人の目的や自我や希望や、そういうものの達成を社会の第一っ原理にしよー、の方で、ルソーで感涙の人たちは、共同体、ネーションとは何であるかをはっきり肌身にあった方で、こっちが大事なんだ、という方だろう。

考えてみればちゃんと19世紀的思考傾向の2系統がここにある。

ただ、だからといって、この人の立ったこの時間、この空間を捨象してルソーの価値を論じてはいかんと思うし、ルソーが成り立った背景を全く想像だにできなかった日本に突然こういうのがあったらな〜というのも、それも相当へんだ。

そして、そういう「取り込み」の仕方こそ、ミスター福沢が嫌ったやり方で、こういう考え方を福沢はできたのにもかかわらず、その後誰もできていないのではないのか?

どういうのかと言うと、例えば理科学系の理論とか仕組みの話はいくらでも手元で辞書を引きながら考えればわかる、だから洋行してそれがわからなくてもくよくよしてない。すでにわかることも多かった。

そういうことじゃなくて、洋行して何に目をきらつかせていたかといえば、なんだったか表現は覚えてないけど、その地の人にとってあまりにも自然でどこにも書いてないもの。つまり、政治とか経済の「仕組み」ではあるにせよ、どうしてそれでいいのか、みんなそういうもんだ、って思えるのか、いわば原初的な秩序系に感心があった。このへんはすばらしい。なぜ理論というのが出来て、それが社会内で生きるのか、を良く知っていると言っていいのだろうと思う。商売っけと言えばそうだが。

といって、ルソーに感涙を覚える人を非難したいのではなくて、どうしてこっち方面には諭吉っちゃんみたいな、社会を作るのにとっても役に立つ人が出てこなかったのかなぁとそれが悔やまれる。