もうちょんまげ的ではない。しかし差異はある。

ではなぜ明治維新にこだわるのか。勝手に連載体制になってますが(笑)、なぜ明治維新にそんなにこだわっているのだ、川上、というのをちょっと書いてみると、これは海外在住者にとってそれほど突飛な話ではなかろう、と私は思うんです。

私たち(日本に生まれて育った人)は、随分とここ(いわゆる欧米)の人たちと異なった価値の基準系で生きてるよな〜、と思うことは日々出てくる。たとえば、なにがなんでも靴を脱ぐ。あくまで洗濯がしたい。家具の位置よりまずホコリだ、あやまらないってことはないだろう云々、なんでもいいんですが、別の基準価を持ってくらしている。

ついでにいえば、長男だからさ、とか、実家に帰るといった語が持つ背景というのもここにないものでしょう。

もちろん、それにもかかわらず、異なっていると言われると激怒する人なんかもいます。「日本人って今でもキモノ着てるの?」と向けられると怒る人がいる。

しかしなぜ怒るんでしょう? チョンマゲがなんで無くなったのか、どうして着物を着てないのか、そういうことを自分では「時代の流れ」ですましているかもしれないけど、それは他者にとって納得できる時代の流れではないですよ。欧米だって髷ものゆわなくなったし、長いドレスも着てない、ほうら変わったでしょ、に自分をまぜてしまっている人もいるけど、それは微妙に、そして大きく違う。

文化は影響されあっているのだから日本だってそういうことなのだ、にしてしまっているのは90 年代以降どうも顕著な気もする。相対化したかったのだろうか。

西欧近代の中に自分を組み込んでしまうことで、洋服着たから自分もこの人たちと同じ、にしてしまっている。これは頭の中の作業。根本的な秩序系は異なっている。

といって日本の過去150年も現前としてあるんだから、もうちょんまげ的ではない。しかし相変わらず差異はある。そして、他者から見た時私たちは私たち=日本の人だ。私はこれがネーションの実態だろうと思うんです。(維新、敗戦のタイミングでは封建的、軍国的すぎて自分でさえそう言えなかった)

で、こっちに軸足を移す。欧米組に、頭の中で同化して、身体はそのままみたいな統合失調症状を起さないように。そのためには頭と身体が分離していった経緯から考えようと考えているわけです。