続き。

で、思うにこういうことになるのは、勿論著者たちの傾向もあるし、それにうかうかと乗って来た読者もどうかと思うわけだが(そうしてそれを買っているという意味で明らかな支持を与えているのは私だったりもするんだが)、日本人というタイトルを付けると、多分、どんな惹句より食い付きがいいのかな、って思う。あと、アメリカ人ね。

前にどなたかが、本当は別のタイトルを付けていたのだが、アメリカが付いているかいないかじゃ売れ行きが違いますからと言われたということを書いてらした。多分そういうことはたくさんあるのだと思う。

確かにどんな文でも他人の気を引かないことには読まれない。でも、「日本人は」という主語を平気で立てて、考えるに似た作業を行うことに対してのブロックをし続けているとしたらどうなのだろうか。

日本人は無責任だ、と、
私たちは無責任だ、の違いを考えてみれば、「日本人」という主語を立てることが、どれだけ心理的に簡単で、何でも言えるかってのを、それこそ考えたことがあるのか、著者たちぃ、ではあるのだ。つまるところ、これでは思考しているというよりも、自分を外に置いて、眺めていることになりはしないのか、と思う。眺めていることは、観察の結果を記述することであって、決して考えていることではない。

しかも、この際言ってしまうが、自分の事を書きながら、「日本人は」と書き出す人までいる。対面していてもそう言う人がいる。私に対して「日本人は鍋が好きですからね」などと言うのだ。それはまずお前が好きなんだろうが、と突っ込みを入れたくなるのだが、そうすると、いいやみんな好きです、となって、まぁ確かに概算ではそうかもしれんからいいか、となる。

対照的に、私たち、という語を嫌う向きがあるけど、これはやっぱりこの曖昧さ、対象化が半端であることがいいのだろうとこの頃思ったりする。私たち、と言っている限りターゲットは著者にとっての範囲でしかないわけだし、もし自分が、いいやオレは違うと言いたいのなら、そう言える契機を内包している。

一方、「日本人は」とこられると、オレもそうなわけだから、完全な反発を用意するか、でなければ、気が弱い人なら、オレもそう「ならなければならない」式にトラウマ養成ギブスになるかもしれない。

「あたしってへん?」と言う人が日本人には多いのだが(この場合、多いとか少ないとかで全称化を防いでいるとみなす)、この真意は、おそらく、それら「日本人」としてあるべき何ものか系伴?覆緑?イ魑い砲笋鵑任い襦△辰討海箸覆鵑世蹐Δ塙佑┐襪海箸發任?修Δ忙廚Α

上述の理由から、「日本人は考える(or 考えない)」式の、全称命題ターゲット心理追い込み型の言辞はいい加減やめるべきだと私は考える。