考えるのはAでありBである
『日本人は思想したのか』というこのへんてこりんなタイトルの本について仲俣暁生氏が取り上げていた。このサイトは本当に面白い、というか氏が面白い。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20040220
で、氏の活動を読ませてもらうとサブカルと括られているものの概論がよくわかるのだが、一体サブカルとは何なのだ
ろう、と考えてみるとサブカルというのは、どこであっても、プロパガンダからの身のかわしということなのだろうかなど思ったりする。で、かわし、の人もいるけど、防衛戦線を築くという意図もどこかにあったりする、と考えてくると、こういうジャンルにあんまり「右翼」っぽい人がいないというのもわからないではない。ただ、でもそうしたら、このジャンル分け(サブカルvsエスタブリッシュメント)は、内戦なわけで、その決着は永久闘争的なのか、それとも捲土重来的になるものか、よくわからない。
それはともかく、上の本は、吉本隆明、中沢新一、梅原猛氏が対談していたもので、私は実は読んだ。
ほんとーに、どうしてこの三人でこんなのなの?というぐらい中身のない本だった。ただ思想したのか、が、もしもっと平たく、考えたことがあるのか、なら、こういうタイトルが出回ることそのものが考える人の少なさを表していると思った。
なぜなら、日本人が考える、というその文そのものを私たちは押しとどめるべきなのだ、と考えられない人がいるとしたら、既にそこで考えるという行為を取り違えているからだ。
私は考える、あなたは考える、Aは考え、Bは考える、しかし、「日本人」は考えることはできない。できているかのように「表現」され得るだけのことだ(それは詐術だ)。
ここにあるのは、集団的に統合することへの、殆ど感性ならぬ慣性の法則みたいな傾きだ。これを取り外すことができて、はじめて個人aは考えることが可能であって、そうしてその総体として、考える「a 日本人」、が生まれる。
その数が多ければ、外から見た時(あるいは一般化、対象化した時)、the 日本人は考える、と呼ばれ得る。
つーわけで、私は殆ど年来の主張になってきたけど、日本に求められているものは、他のどんなものよりも、宗教改革だよ、やはし。
3人とも宗教系だからなぁ〜。この企画はそれ自体として暴露もののようでさえある。