セキュリティという過剰から1年経ってみて

ちょっと整理。
カナダで2002年末にシリア生まれのカナダ人が、アルカイダ関与の嫌疑をアメリカからかけられて、その後2003年秋にカナダに帰って来た。

私はそれを、

セキュリティという過剰:
アメリカ人の危機意識から 考える9・11と現在 
http://members.jcom.home.ne.jp/katori/kawakami.html

で、過剰なセキュリティ意識が「外」をすべからく敵に見立てる傾向につながっている(決して911だけがきっかけではなく)アメリカの様子の中に盛り込んだ。


プロジェクト「アルカイダ」舞台裏一幕
http://www.yorozubp.com/0311/031121.htm

これは、2003年秋にそのシリア生まれのカナダ人がカナダに帰って来た話。

と、自分でそう意図したわけでもなくこの問題をずっと眺めていたことになる。

そうして気づくわけだが、アメリカはあれだけ頑固に、当該シリア人はアルカイダ関係者だと言い張り、その証拠もあると言い張って、NYTなんか、カナダ人の危機意識のなさを責め立てる(馬鹿にする)のに余念がなかったのに、このような顛末を迎えていることへの反省といったものはない。

そして、人びとも別にフォローはしない。
しかし、その人びととはカナダ人じゃない。カナダのこの1年に一体この話が何十回新聞の一面をかざっただろう? かなりの数だ。だからカナダ人は全然忘れてない。また、パスポートという自分に身近なものがテーマにあるだけに、加えて多くの人間が国境線近くに暮らしているだけに、忘れろといってもそれは無理だ。

アメリカ人は、国境近い人は最初からそれなりにアメリカ政府おかしいぞ論を取っていたが、NYTみたいな「国論」派には関係がないんだろうかな。あいかわらず、テロ対策と真剣に書くんだし。ま、それはいい。なぜなら彼らは、当事者であり、嫌疑をつくり出す、その意味で問題の提供元だから。

で、それを提供されたカナダが忘れないのはカナダ国にとって、国民にとって正しい姿勢だ。

でので、元々日本にはこの話は殆ど伝わっていなかったので、多くの日本の人は多分知らない。知ったとしても、「テロ対策」を巡るちょっとしたトラブルだ、ぐらいに報道される可能性は大きいだろうし、そう信じてしまう人も多いのだろう。

が、それはしかし、提供元から等距離にあるものたちとしては、いかがなものか、ではないのか? 別に同情を示せというのではない。そうではなくて、これは同じように我が身側の立ち場を認識してみる機会ではなかったのか。

つまりこのケーススタディからわかることは、提供元は、考えてみれば当然のことながら、自分に不都合な「視線」など取らない。情報を探ろうともしないだろうし、全体として理解しようなどとも思わない。

従って、提供元からの記事を我が方で「たれながす」限り、提供される側は、我が身の不幸に気づくことはない。できない、書かれてないし、視点として獲得できないんだから。

日本発の視線をどうやって獲得できるのだろうか。

今日完全な収奪機構に組み込まれたことは、この、我が方の視点不在の報道の結果だった、と考えてみることは無駄ではないと思う。仮説として検証の価値があるんじゃないのかしらね。