2004/01/08 (木) 日本語使用者の問題と日本語の問題

寒いのなんのって、先週びっくりするほど暖かいわ、なんて寝ぼけたことを言っていたら、目が覚めるほど寒くなった。久しぶりに、結氷してる(笑)道路を見た。数日前に雪が降って、それが日中融けて水になってその次に一日中氷点下が2日ぐらい続くと、そこら中結氷道路が出来上がる。

多分まだ湖の結氷はないんじゃないかと思うけど、そのうちだんだん小さい湖は完全結氷に順次移項します。頑丈です。日本語では「薄氷を踏む思い」っていうけど、そういうの、ありません。ナイアガラも下の方、シャーベットになります。

それはともかく、夕べ、日本語のことをいくらか書いたけど、私にとってずっと気掛かりなのは(そして私たちにとって本質的にこれをなんとかすることが求められているのだ、と勝手に私が決意しているのは)、使用に耐えなくなっている部分が多すぎる、もはや見過ごせなくなっている日本語、ではなくて、使用方法。

こういうのを「日本語の問題」と表現することにはなるのだが、これも考え直すべきだろう。なぜならそれは日本語が構造的に持っている問題ではなくて、使用者がなぜそう使い、こうでも、ああでもなく使わないのか、の問題なのだから、そうであるのならそれは日本語の問題ではなくて、日本語使用者の問題であるはずだ。

多分明治以来そこらへんに気づいた人もいっぱいいて、ごしょごしょ色々改革はあったということなのだろうとは思う。そして今のところそれは失敗したと言うべきと私は思う。で、どうして失敗したかといえば、(1) それは他人のものの考え方を変えよ、という意味になるから。つまり、Aと言うな、Bと言った方が正しいでしょ、とは、場を限って(i.e.説得的だ、事態を述べるのに精確だ)使わねば、他人の考え方、視点を規制することになる。

(2) 従って、(1)の結果として、こういうのは商業メディアではなかなかできない。読者の反感を買っては売れないから。新聞を含む商業メディアにとっておもねるという行為はある意味で自明なのだから、これは仕方がない。

では手はないのか。あるでしょう、そりゃ。私は変える、そう思う人が多くなればいいだけだ。変えなければならない「流れ」だから変える、そういう考え方をやめればいい。この時私は買い手ではない。では何者か? う〜ん、愛国語者であり、それを愛国者と言うのだと私は理解するな。寒いから気合い入る(笑)。