本質的に移り気なメディアに移り気が芽生える

と、気づく。こうやってぱらぱら書けてしまって、それを直す手間というのも別にない。開いたらかけちゃう。

対して、今までの日記枠は、1000字制限があって、これが以外に面倒に思えることも多々ある。なんせ話の長い私。

同じ理由から、でも長所みたいなところもあって、基本的に日記というよりコラム書きみたいな感じになる「可能性」はある。つまり、いくらかまとまったものを書こうという気にはなるのだ。だけど、こうやって縮めてものを書くというのには、何か限界があるのではないかと感じている今日この頃でもある。


くだらないことだが、この字数制限があると、紙メディアでの原稿書きと同じように、本当はイギリス、本当はアメリカと書きたくても、字数を削らないとならないとなったらまず真っ先にこのへんを米国とか英国とかに変えることになる。カナダに来てからはカナダというのを「加」と書いても誰もわからないからそれはできない、が幸いにカナダは短いから今のところそう困ったことはない。ポーランドとか、アゼルバイジャンなんていう語が頻出する原稿を書く人は大変ですね。

だけど、昔組版をやっていた時ならいざしらず、今なんて、DTP編集上でいくらか文字のサイズを変えたりすれば文字数なんていくらでも対応が可能だろうになんでこのままの規定なんだろう? ってか、そもそも100字増えて困るオンライン日記もないんじゃないかと思う。システム的に。にもかかわらず規定があるというのも思えば不思議な話だったわけだ。

ってか、写植の時代だってちょっと詰め打ちすれば多少の融通が効いていたから、何字でなければならないことはない、になってから実際には長大な時間が経過しているわけだ。

にもかかわらず、400 x ○枚と考え、どんなものでも最初から枠を決めて書かせるというのはどんなものなんだろうか。わけもなく長いのもどうかと思うけど、刈り込んで短くすることが巡り巡ってもたらしたものも少なくはないような気がする。