媒介崩壊後の空白を考えてしまう今日この頃


小泉政権ブレーン・高橋洋一教授を窃盗容疑で書類送検
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090330-OYT1T00754.htm

朝日の件は状況と歴史から、さもありなんすぎて驚きもしなかったが、こちらは多少は驚いた。


でも、いや、モラルのない人間のようでイヤだが、ある個人が小さな窃盗を犯したか否かについては私は殆どまったく興味がない。多分、学問的に尊敬する師匠とかでも同じかもしれない。考えるのが本業の人に対しての私の向かい方は、その人の考えた結果であってその人とについてはあまり興味が持てないところがある。でもって、考える人であっても、幸か不幸か、たいていの人はショーペンハウアーよりも良い人で、ルソーほど不道徳でもなく、エンペドクレスほどのある種の剛毅さもない、しかしヒュームズほどポジティブ天性を持ってもいない、その輪の混じった意外と小さい分布図の中にバーストマジョリティはいるものだ、みたいなことをまず考えだしてしまう。


とはいえ、なんか妙な成行きだなぁという点が目につきすぎるので、そんな悠長なことを言ってもいられないような気はする。

が、さりとて、勢いよく陰謀論に飛び込むのもイヤだが、まったく人はわかりませんね、などいうつもりはさらにない。今現在では、という但し書き付きだが。

なぜなら、

後者は一見穏やかそうなリアクションだが、でも、この不確かな記事1本で彼は有罪としてしまうというのは、実に思い切りのいい道徳原理主義的リアクションだと私は考えるから。まだ、だって、どういう事情なのかよくわからない事情だと思うんだが・・・。

そもそも、書類送検となったという事態をもって有罪みたいに思ってる人が多いように見受けられるけど、これってまだこの先、起訴猶予とか、不起訴とかになり得る事態なのでは??? で、いやいやそれにしたって何かなかったらこんなことになってはいまい、という想定をすることもできて、それはそれである程度の妥当性のある場合もあるとは思うけど、この場合にもその妥当性が援用できるのか否かはこれまで伝えられているところでは不明では?

で、それ以上に私が気になるのは、この事件、あるいはこうした事態の記事の書き方か。
どうして本人に尋ねてないのかに大きな不信感と不満を持つ。


〜と○警察のXX氏は語った。一方で、問題のA氏は、YYYYYY。


と書き起こすのが本当、というか、民主主義社会にとって求められる態度ではないのかなど、なんか空しいけど言ってみる。


その上で、YYYYYには、

A氏はこれを否定している、
A氏はコメントを拒否した、
A氏の代理人のB氏は現在事情を調査しているが、私は彼がそんなことをするとは信じられないと語った、

といったあたりが入るというのがこちらで暮らしていて見る、被疑者に関する報道様式ではないかと思う。普通にフォーマット化しているって感じだすね。

あ、

A氏は、まったくお恥ずかしいことをしたと語った

というのもあるか。
で、その場合には、記者も相応に理解を示して、言葉少なに語ったとか、帽子を目深にかぶりそそくさと質問に答えた後、待っていた妻が運転する車に乗り込んだ、とか続く(いじめ、をしたくない状況であれば)。


上でも書いた通り、この時点で完全に有罪扱いするのって、へ?なのだが、
よく読むとそれどころか、読売なんか、
東洋大は「教育に携わる者として許し難いことであり、厳正に処分を行いたい」としている。

既に完全有罪判決状態。
ま、教育機関だから仕方がない部分もあるけど、いや、教育機関だからこそ、例えば、

「本人側からの事情も聞いた上で判断することになるが、一般論としていえば、もし警察の発表通りのことが起こっていたのであれば、教育に携わる者として許しがたいことである」と、東洋大のC氏は語った。

といった具合が、これまたフォーマットであろうかと思う。それこそ教育上問題があるのではないのか東洋大学、とかも思うし、でも東洋哲学の学校なのでこれでいいのかとか思ってみたり。

いやしかし、記事を書く側は東洋哲学の体現者であってもらう必要はないので、大学は語らない、という点に注意すべきと思う。語った人の名前を求めるべき。(C氏は匿名を条件に語った、でもいいし)


詳細に見れば、

逮捕しなかった理由について同署は「証拠隠滅の恐れがないと判断したため」としている。

これも、警視庁練馬署のD氏は匿名を条件に語った、or 練馬署を代表できる権限のある人の名前を書く必要があると思う。

 男性の通報で駆けつけた同署員が調べたところ、防犯カメラに高橋容疑者に似た男が写っていたため、浴場から出てきた高橋容疑者に事情を聞くと、盗んだことを認めたという。

〜という、というのはどういうことなんだろう。
伝聞形式なわけだが。
同署員が語ったところによれば、なのか?
それとも、記者クラブの合意でそういうことだ、なのか?

なんだかなぁ。


日本っていい国だし、人々も民主主義的手続きにかなりフレンドリーで、その上で、潔癖に正義感のある人が多いので、それらが上手にブレンドされればかなりお手本的な国になる素質が期待できると思うのだが、表出されるものがえらく、ファシスト的だよなぁなど思うっす。

考えてみれば、メディアがファシズム援用的にできているので、そこからの反射によってこの様式しか知らない国民が多くなる可能性があって、それは結構、勘弁な事態かも。


メディアじゃなくて権力機関がそうだと考える人もいると思うけど、私はそうは思っていない。権力機関というのは常に恣意的でありたいものだと思うのね。古今東西を問わず普遍的に。で、だからこそ、民主主義的手続き、およびそれにより簡素化されたある種の様式によって、その恣意性を防ぐといのが基本だろうと思う。


で、メディアというのはその名が示すとおり、そこで庶民と権力機関の中間に位置して、多少特権的な(一次ソースに当たれるなど)役割を与えられているのが、歴史的展開の果てに現在あるところの民主主義的あり方かと思う。今更だが。


ファシズム援用メディアをどうしたらいいんだろう。メディア=媒介者がないと不便だというだけじゃなくて、この媒介者に権力機関との対応様式を既定されていく時間が長ければ長いほど、私たちがほんまもんのファシズム的世界に突っ込む可能性は高まるのじゃまいか。


今後、上の朝日で見たように、既存メディアの崩壊が来ると思うんだが、その際に、しかし、人々は(私たちは、だが)、1)ファシズム援用対応しか知らない、2)民主主義的あり方を知っているためメディアに多少なりとも期待したりもしたが結果的にファシスト援用側面が強まったメディアの下で晒される危険性を見聞きするに及んで怖くなっているから無言を決め込む、に大別されて、当然のように1)が勝つ、ってな将来が可能性としてあるわけで、高橋氏の心配よりも、こういう決し方をされて、手も足も出ない自分たちを心配しないとだわ。


ファシズム援用メディアとは言ったものの、多少なりともそれはそれなりにジャーナリズム的役割をしていた部分、つまり、ある程度民主主義的な側面もあった機関が、がらがらっと音を立てて崩れる。そうすると、あった時にはずきずき痛む迷惑な親知らず状態で腐臭を放っていたから抜いたのだが、でも、抜いたら抜いたで空白地帯が大きくなって、全体のバランスが崩れる、ってね感じがあるような気がして怖い。


気が重いなぁ、なんか。