北京万歳主義のトーンが低くなるといいな


北京五輪の開会式、とりあえず何事もなく終わってよかった。それだけでなく、ようやく本番が来て、もうなんやかやとへんな理屈を聞かされることがなくなって、ああよかった、みたいな感じで受け止めた人もいるんじゃないのかななど思った。

大スペクタクルを褒めるたびに、独裁制って効率がいいですねと言っているに等しいこの環境が、本質的におかしい、どうかしてるだろうと思っていた人は世界中にいっぱいいただろう。しかし、それを言うと今度は、大量のチャイニーズが騒ぎ出す(この最初の大きな表れは聖火リレー)、という交われない構図が少しは静まるようになるだろう、そうあって欲しい、そうだよね(信じたい)、みたいな。


大スペクタクルを褒めるたびに、独裁制って効率がいいですねと言っているに等しいこの環境、というのをどうやら、Beijingoismとか言うらしい。北京のBeijingと、jingoism(感情的な愛国主義とでもいうのか)の合成語なんだろうと思う(それしかないか)。無理やり訳せば、北京万歳主義か。

で、ごくありふれたナショナリズムではなくこういう語が使われるのは、体制内の個人の主観にとってはそれはナショナリズム、この国は素晴らしい、であっても、もっと大きなピクチャまたは客観的に見れば、中国共産党万歳になってしまっているから、でしょう。従って、Beijingoismとは、実のところ中国共産党万歳主義だ、と。

それにもかかわらず、ねぇ、あんた中共を利してるんだけどいいの、と外の人が声をかけようものなら、かけられた個人は自分の愛国心、郷土愛、あるいはナショナリティへの自尊心を傷つけられたと感じて怒る、と。

このすれ違いをどうしたらいんでしょうか、ではあるけど、当面打開策はない。しかし、オリンピック前のあの緊張の高さは終わるんじゃないかと、ちょっと期待しちゃう。


このへんのBeijingoismへのゆるい批判は、先週1週間店頭に出ていた号のEconomistが代表選手か。
China’s dash for freedom


で、この号のオンライン版に、上のような成り行きがまさしく現れていた。Economistの偏見だぁ、そうだそうだ云々と、多少のたしなめ、攻撃等々、怒涛のコメント。これって、同誌が凄腕の釣り師なのか偶然なのかわからないが、なにせ暑苦しいww。もう見たくないので今どうなっているのか知らない。見るだけで疲れる。


しかし、こう、あの開会式。確かに素晴らしいんだろうが、なんつかこう、私は幕の内弁当が好き、と言って一人帰りたくなるようなくどさ、ゴージャス、豪華、華麗、スペクタクルその他なんでも、という感じだった。