毎日新聞変態騒動が見せるこの欠落感


今日はデモがあったそうだが、これはまぁ失敗というかしょぼいものになるんだろうなぁなど思ったのだが、実際そうなった模様。行かれた方ごめんなさい。

でも、別にいいのじゃまいか。人様の多大な迷惑にならない限り(その意味で、首都圏がサミットがらみで混雑する時に大規模でなくてよかったなぁと真面目に思う。やめれとまで思った)、いろんな方法で向かえばいい。

目標点だけを共通にして、各自日報出すわけでもなく、総大将を作るわけでもなく行動すればいいしな、とか思う。一揆だけが力ってもんでもない、そして多分、私たちが置かれた状況ではこうするしかないと思うし・・・。


デモンストレーションというのは、力対力の時代の名残で、最近はめっきり人気もなければ効果も疑問な手法だと思う。

また、デモというのは、対峙する相手が互いに存在しない場合には意味がないとも思うし、存在していてももともと現実的には意味がないのだと思う。つまり、これは力対力の象徴儀式なんでしょう。


デモと似てるストも同じ方向か。トロントでも何ヶ月前交通公共機関のストがあったのだが、もう、思いっきり不評。GMの工場閉鎖に抗した組合員たちが本社前ブロックとかもやったのだが、彼らが怒る理由はわかるが、その手法はやめれと裁判所に立ち退き命令を出されていて、その判断というのがその他市民の一般的な感情と非常に合ってるなぁとか思ったものだった。空気読むなあ、裁判所、みたいな。


つまり、今は、コミュニケーションを求め、そこで交渉、妥協、という流れが好まれるものと思える。両者が怒鳴りあって対立する話じゃなくて(力対力じゃないなら別に怒鳴らなくてもいい)。


で、その場合に必要なのは、両者が納得できそうな落しどころを目標点としているというコンセンサスか。これが最も重要。そもそもこれがなければ交渉ではない。

で、その目標に向かって、多少の脅しあいとかもあるけど、基本的には妥協点の模索だとわかりながらやる、と。


といったことを考えた時、今回の毎日新聞騒ぎはどう解釈されるだろうか。
まず、人々は毎日のプロダクツを不正なものとして怒った。が、これをクレームとしてプレゼンする機関がない。主たる機関がないからだ。毎日側は謝罪したという。しかし、そもそも交渉機関はなく、何が争点なのかについての争点の合意がそもそもないから、妥協のしようがない。そして、結果として、どうやらそれはすれ違いだったために、人々の方は今も苦情を述べ、毎日は、訴訟するぞとただ脅している(全然効いていないわけでむしろ燃料になっているわけだが)。


すべてがバラバラなのよね。
ではどうなら望ましいのか。多分それは、それぞれの事象に応じた専門性の高い機関(この場合なら、女性の人権なんちゃら、教育なんちゃら等)が、そこにいることだと思う。


メディアがいること、と一瞬考えそうだが、それは誤りだろう。彼らに求められるのは見た、聞いたことを人々に報告することであって、どちらかの主張を代弁することではない。(代弁者が報告すればそれは関係者の報告だ)


そう、必要なのは独立した各種の機関、インスティチュートというのは近代が作ってきた大事な要素だったのだよな、など思う。で、日本にも確かにあったはずなのだ。
ところが、どうやら、ウソンコの機関しかなかった。


多分、長い間に、取り分け90年代に軒を貸して母屋を取られる的に変容したものや、どこでどう間違うのか、マスコミ、メディアとの癒着が著しくなって独立機関としての機能を失っているところなどもあるのではないかと想像する。
(官僚の天下りは各種財団かもしれないけど、多少なりとも知的と考えられる業に就いている人たちの就職ネットワークには新聞社とそれに連なる機関とかあるから、同じ構図か、もっと悪い形での溶解かもしれない)。


などなど考えるに、とりあえずこの国の行き先にとって問題であるものの1つは、独立的に振舞える機関であり、そうした機関をマスコミと総称されるところと一定の距離を置かせる仕組み(矜持とも言うが)ではなかろうかと思う。


しかしまだある、最大の問題は、それら教育、人権等々の機関のあまりのウソンコさに、これらの言葉が付いた途端人々が完全無視を決め込むにいたってしまったこの不信感をどうするのか、だろうなぁと思う。
social justiceとかhuman rightsを掲げる機関には胡散臭い(特定の力関係ばっかりに専念する)状況は実際問題カナダでもアメリカでも酷いことは酷い。なんでもかんでも政治的、なかんづく政党政治的になりすぎてそれ以外の人は用心しないとならないケースもある。でも、社会正義とか人権よりはかなりマシだと思う。

どうしたもんか。どこかに突破口ってあるんだろうか? 各種民間企業と結局優秀で結局正直ものもいぱーいの官僚さんがいて、人々には概ね矜持というものを理解した人が多いために、とりあえず保ってます、みたいな国のままでどこまで行けるか・・・。


いずれにしても、そういうわけで、毎日新聞ケースは主導者なきゲリラ戦になるのかな。ふと考えると、毎日はソースロンダリングを主たる武器にした言論のゲリラ戦で過去9年間に渡って無敵で進撃していたので、応戦もゲリラ戦以外にない、という解釈もなんだか正しいもののような気もする。
(経過観察的には、主たる軍がないからゲリラの進撃を許し、主たる軍がないまま仕方がないからゲリラが応戦している、ということ)


私も粛々とゲリラしてる。止める理由は全然見当たらない。