ポルノ紙と通常一般の新聞との境界についての私の考え


世の中には英語でも日本語でも、ドイツ語でもフランス語でもあるいはその他マイナー言語でも、アホな記事、本とかどうかわからない記事、あるいは、実際それは本当だっただろうがどうとでも書ける記事、そしてエロチックな妄想を呼び込むためにそれにシフトして書く記事、なんつものが日々生産されている。それはそれで喜ばしい。

が、そこでだ。それらのうちの、一応名の通った新聞つのは、世界中の男子諸君、女性各位の発情に直接貢献するような記事というのは普通は書かないという現実がある。どうしてなのか。それはそれで考察に値もするだろうし、その流れに抗するのも道ではあろう。


私は理由は多様でありまとまりはないながらも現在の、主要紙はエログロを扱わない、性的妄想を煽り、ひいては人々にいたらずらな差別的視線を体験させかねない衝動に大きな貢献をするであろうと考えられるマテリアルおよび文章作法を取らないという姿勢に共感するので、そうした実験的な主要紙が登場しても賛意は示さないであろうと思う。


さらに、この実験的な試みを、読者に開示することなく密かに行おうとする行為は読者に対する重大な背信行為であると考える。また、そうした紙面に対して広告行為を付託するスポンサーは相応の注意を払うべきだろうと考える。従って、もしそれが適わないのであれば、地味ながらも不買運動もすりゃ啓蒙運動もする。1人1日1コールで、知らせまくる。