チベット問題を沈下させない

今日は一日チベットチベットとあっちこっち読んで、で、残った疑問は、少数民族として遇されている人々の現在の状況と、もう1つ、で、この問題を取扱う主要な人というのは誰なんだろうか、ということか。


上のように、ある種「公式」中の公式は非常に穏やか、serene and peacefulみたいな感じがするわけだ。どういう問題であっても。


一方で、天漢日乗さんが連載されているラサのシリーズでリンクされているところをたどると、もうね、読みたくないものがずらずら。


私は身体的苦痛の話が非常に苦手であり、基本的に、惨い話を読むことは、平和的、あるいは理想的、望ましい、あるべき(任意に)姿への到達手段として必ず必要なものではないという考えを持っている(心が張り裂けて、惨い人の像を刻むことはトラウマにしかならない場合もある。それなら良き人の良き言葉を心に刻む方が百倍もいい、ということはある)ので、英文の原文はざっと目を通すにとどめたが、いやしかし、嫌な話だ。怖いっす。お祈りして寝るよ、もう、今日は。


と、この状況を私なりに(私のために)整理すると、ダライラマ以下の主要人物たちは宗教者関係であることもあり、基本的に、平和裏に平和裏に、それはつまり現実的にいえば、政治的に政治的に解決したい。それは誰しも思うだろう。

が、この政治的にというのがまた曲者ではあるわけで、ではいったいどのような落としどころをどのような手段で目指すのかで、同じチベット問題を懸念する人々の間にもばらつきがあるのだろうなということはなんとなくそうなんだろうと思う。どういう行動でもそうだといえばそうだが。

さてしかし問題は、では、一般大衆というか、問題の枠組みからは遠い私たちはどこにこの懸念を伝えればいいんだろうか。数が問題ならどこかの団体に名前を連ねることにはなんの問題もない私だが、ではそれはどこに、というのがよくわからない。

当面の私の理解と行動としては、とりあえず、地震被害の大きさ、および、オリンピックのまぶしさに負けてチベット問題が沈没しないために、どういう波及があるのかはともかく、あっちこっちで問題だ、問題だと書き連ね、さらに人にもついでのついでも良いから語っていく、ということを実行しようとは思う。それは多分、雷雨の中の1粒の雨粒よりは大きな効果を持つだろう。

どういう関係者がいるにせ、私の願いはただ1つ。
個人に対する不当な暴力はやめろ。話はそれからだ。以上。


天漢日乗さん、今後ともがんばってください。