出しっ放しの権威主義が好きなのか

しばらく書かなかったら、と前にもこの出だしで書いたが、また言ってる。で、今度は自動的にログアウトされていたようで(ある期間書かないとそうなる仕様らしい)、ようこそゲストさんになっていた。私だってーの。しかしながらパスワードが思い出せない。パスワードをお忘れの方のための仕様のお世話になってようやく辿り着いた。しかしこの、むかしに比べるとこういう咄嗟の場合にどうしたらいいのか、こうするのよ、ああそうやってみるね、やったよ、できた、という仕組みは、はてなさんに限らずありとあらゆるウェブサイトの仕様として、よくできてるよなぁと思わせるものが多くなった。以前は、こうするのよと書いてある通りにならない、というケースがよくあった。


と、しばらくぶりで日本発の記事を読んだ(ニュースはとりあえずチェックしてるんだが)。いやぁ、きてますね、毎日新聞


グローバル・アイ:中国国家モデルの台頭 権威主義と経済が両立=西川恵
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/globaleye/news/20060429ddm007070123000c.html

テレビドラマ「おしん」もこの日本イメージ補強に貢献した。日本を念頭に置いたマレーシアの「ルック・イースト(東方外交)」が打ち上げられたのも80年代。日本が対アフリカ外交に力を入れていた90年代は、アフリカでも日本モデルは説得力を持った。

 しかし、いまや権威主義的な中東諸国、アフリカ、アジアの国々にとって、体制を維持しつつ経済発展を実現する上で中国はお手本である。25日、ドイモイ(刷新)の加速を決めて共産党大会を終えたベトナムにもそれはうかがえる。中国モデルが世界で一定の魅力を放っていることは知っておいていい。(専門編集委員


日本も出るが説得力を失ったってのがどういう理由かどうか、あるいはそもそも説得力があったのか(あまりにも個別事情的だったんじゃないか、という意味)はともかく、チャイナモデルが説得力を持つって、そんなバナナと古いことを言いたくなるほど衝撃なお説だ。


単純にいって、それはチャイナデモルというより、独裁的な国家群にとっては格好のお客さまが来た、という話じゃまいかなど言ってみたい。なんといっても、なにを持ってチャイナモデルと呼んでいるかといえば、この専門委員によれば、

中国モデルは9・11イラク戦争後、より魅力を加えている。民主化圧力を強める米国に対し、経済関係や援助をその国の人権や民主化はからめない中国の内政不干渉は、権威主義的体制の国々を引きつける。


つまり、なんでもいいから金を出す、だからということらしい。それに対していえば、実際、アメリカ、カナダはうるさいです。人権問題がああだこうだ(アメリカのリベラルは別にこれをゆずってはいない)、あんな国の体制をそのままにしておくのか、ええ、なんてこった、かつてのアメリカ政府も馬鹿なことをたくさんしたがソ連に儲けさせるような戦略を取ってはこなかった分いまよりずっとましだ(コミュニスト・チャイナを儲けさせているということがどうにも我慢のできない、アメリカ右翼、つーか過激右翼っぽい人)、と右からも左からもなんのかんのといって「チャイナ」というところはそうそう好評にはならない。経営者たちには表面上、あるいは経営上好評だとしても、それが社会問題となった時同じ基軸は取らない。


これをうるさい、と呼ぶこともできる。が、なぜ彼らがそううるさいかと言えば、本質的にうるさい人たちばかりだから、白人は傲慢だからと言っても良いが、もっと現実的な理由が一つ足下にころがっている。そういうチャイナ(かつはそういうソ連)からの人々が、なんのかんのといって逃げてくる先がアメリカ大陸だからだ。つまり、どうしたって生で関係があるし、混乱があったりめちゃくちゃなことが起きれば、その引受先になることは常に想定内だからだ。


この点から見た時、その「権威主義的体制」、あるいは、こういう奥歯にもののはさまったような言い方を取らなければ、独裁的な体制という国家群が他国の事情について興味はないよ、と言うのはとても簡単だ。なぜなら、今現在でいえば、それらの国々もまた、いやになったらアメリカへ、カナダへ、という人々を大量にかかえているからだ。表面反米、実際には不法滞在なんて屁とも思わずアメリカ大陸にねじ込んでくる人々は常に多い。そういう意味では、アメリカ人とかカナダ人って寛大だなとしばしば思う。


で、はっきりいえば、こっちに来てから、それこそATMマシンの使い方から、保険の仕組みから、税金の仕組みから近代社会に生きるための知恵を何から何まで人々は学習しなければならない。人権は来たところから一定程度は確保されるから、今度は市民権とはなんぞや、私有権とはなんぞや、若干メタっぽいところでは、個人と社会、みたいなことを習う/教え込む。異なった国には異なった仕組みがあるから、という暖かい理由でこの間の学習は物語られるが、私も同じ移民として言わせてもらえば、日本人が困惑しているのはまさしくその国による差異だが、そういうのではなくて、社会体制の仕組みそのものを習わないと足らない人がたくさんいるのが偽らざる現実というやつだ。そしてこのプログラムを維持するためには、当然のことながら、税金が投入される。つまり、誰にとっても、俺の金の行方ではあるのだ。


しばしば、移民の英語の水準が足らないから仕事がみつからないうんうんという議論を聞くが、それって違うだろうと私は常に思ってる。知ってるレベル、知っているべきレベル、妥当な認識レベルが背景にないから、表出されるもの、すなわち英語が足らないのだ。が、しかし、これを区別できる人も少ない上に、これを区別すると、先進国とそれ以外みたいな区分をしなければならないから、多分、そこで引き起こされる差別だのなんだの問題が面倒で、みなさん口をぬぐっているものと見える。


話はそれたが、そういうわけで、うるさく言わなければならない人の方が、最終的には個々人の人生についてある程度の責任感なり使命を持ってやっている一方で、うるさく言わない人は、自国民を、まったくの放置プレイのままで、ある一定の自分たちだけは楽しい(これを、「権威主義的体制」というらしいな、毎日新聞)。


しばらく前に、コキントーさんがブッシュを尋ねたことがあったが、私はその時真っ先に思った。


コキントーが言わねばならないのは、アメリカ国民のみなさん、貨物船の下だの中だのトラックのコンテナだのなんだかのから出てくる我が同胞を困惑しつつも受け止めてくださってどうもありがとう、だろうと。


それを言えない限り本質的にあの国がアメリカ大陸、多分世界中どこでも、で尊敬されることなんてあり得ないし、そういうことを言わずに済む日が来ない限り、チャイナというのが国として尊敬されることなんてあり得ない。まったく単純な話だ。