これは愛なのか


いや、愛じゃないと思うんだけど(笑)。
すっかり、North and Southのお仲間になっていただいたHiro-sanの日記を見に行ったら、10日付けの記事がこれ。


■フランチェスコ修道会の「薔薇の名前」と「スティグマータ」
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1302276


私は週末にThe Name of the RoseというそのCDを見てた。なんでっていわれても困るが、なんでだか、ああこれでも見るかと思って見た。この偶然はなぜ、と、思わずこれは愛なのかなどと言ってみたかっただけ。あはは。


この映画、本から入った人にとっては、なんかあっさりしすぎなんじゃないかなど言われる代物ではあったわけだが、見直してみての感想は、そんなことなく、これはこれでいいんでないかい、だった。年取ったからか。


しかし、しかし、Hiro-sanが引用してらしたこれはどうかと思うなぁ。

副島隆彦『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ・下』(講談社α文庫 1998)p199

日本で知識人を気取りながら、まだこの『薔薇の名前』のすごさをわからないままの人がいたら、その人はモグリである。日本の知識人の大半は、国際基準からすれば、『日本国内』だけで通用するただの一般大衆レベルである。


これが本当に、概略でもサラで理解できる人は知識人だ、というステートメントは真だとは思うが、これがわからない集合に入ってる知識人もいると思うんだが。


この先生は、古典的で、日本のオリジナルであるところの「欧米」コンプレックスをドライブフォースにして書き上げている風だからそういう芸風をくさしたりするつもりはないが、芸のない多数の人がこれを信じなければならない理由というのは基本的にないと思う。


むしろ、鎌倉時代の意義について語れない日本人がいたら、そういう人が国際標準的には、エセ知識人と呼ばれ得るというほうが確からしステートメントじゃまいか。


つまり、何か、particularな事柄を知っているかが問題なのではなく、今目の前にある事象を語るために引き出せる構想力及びそれを語るための具体物(具体的な歴史)を備えていることこそが、ユニバーサルに、ああインテリだな、と呼ばれ得る資質ではないかと私はインテリではないがそう思う。そう、私はインテリではないからこそインテリがわかり得るなど言ってみたいかもしれない。モノは外からしか見えないのだ。