「人々による人々のための草の根ジャーナリズム」

どうでもいいといえばどうでもいい話なのだが、アメリカの西海岸のとある新聞で有名だったジャーナリスト氏が、ブログというメディアの可能性についての本を書いてそれが日本で翻訳出版されたことを機会にインタビューが行われたという記事がCNETに載っていた。


市民ジャーナリズムの普及で起こるメディア革新--ダン・ギルモア
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000050154,20087545-3,00.htm


で、記事の冒頭付近に、

 同氏は1994年から2004年まで務めたSan Jose Mercury Newsを退社した後、2005年に市民ジャーナリズムの普及を目的とした企業Grassroots Mediaを設立している。新会社を設立したのは、市民ジャーナリズムに大きな可能性を感じたためだという。


とあって、私としては、いかに西海岸のリベラルそうな人だろうと、「市民ジャーナリズム」なんて言うかぁとふと疑問に思った。テーマ違うだろう、なんか、と。多分、grrassrootsか、people's jounalismなんじゃなかろうかと思って氏の名前からgoogleした。


私の最新の本の名前は、という一文がちょうどあった。


We the Media: Grassroots Journalism by the People, for the People
http://www.dangillmor.com/


だそうだ。


直訳すれば、
「私たちがメディア:人々による人々のための草の根ジャーナリズム」、または
「私たちこそメディア:人々による人々のための草の根ジャーナリズム」
だ。意味的にそれ以外に間違うこともないほどそれだ。そしてこの文は別に日本語で意味をなさないというわけでもない。


日本語の翻訳は、しかしながら、次のようなタイトルになっていた。


ブログ 世界を変える個人メディア
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022500174/249-6380334-2230751


http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0596007337/102-6655245-3408960?v=glance
(アマゾンの同氏の本)


なんででしょう?? まず、なんで「ひと」ではいけないのか? 個人といわねばならない根拠はこの本の中にあったんだろうか? さらには、それがこんどは「市民」になったというワードの選択はなんなのだろう? もちろん、氏はインタビューの中で、citezenとか言ったのかもしれないが、しかしこう、ブログの話としてはあんまり関係がある感じはしない。


で、このインタビュー記事の中に、

インターネットに限らず、すべての情報についていえることですが、「シグナル」となる情報もあれば、「ノイズ」も散乱しています。情報発信が容易となったインターネットの世界では、数多くの情報の中でいかにうまくノイズとシグナルを見分けるかが重要となってきます。また、私の役目は、人々にシグナルを生み出す方法を伝えることです。


こんな一文があった。ノイズかどうかというより、日本のジャーナリズムの1つの大きな問題点は、上のワードチョイスがその例であるような「恣意性」だろうと思う。で、日本のブログおよび2チャンネルが活況を呈したひとつの大きな、大きな理由は、この恣意性に対する反乱じゃなかろうか。そんなことはこのギルモア氏は知らない。知らないのに、

    • 掲示板は匿名性が高いことが特徴ですが、ブログは特定の個人が情報を発信する場であるために、匿名性が薄れます。しかし日本では、ブログも匿名で投稿する人が多いようです。アメリカのブログは実名を出している人が多いようですが、匿名性についてはどう考えますか。


など尋ねられ、

私は日本文化のエキスパートではないのではっきりしたことはわかりませんが、日本人はアメリカ人ほど個人主義ではないという印象を受けます。どちらかというと、日本では個人よりコミュニティを重視するのではないでしょうか。それがブログの匿名投稿にも影響を与えているような気がします。


こんなことを答えている。この本はあまり売れそうもないから特に問題にならないだろうが、もしそうでなかった場合、きっとこういう、インタビューの前提が不確かなことがもたらした答えが、一人歩きして、「ノイズ」になるんじゃなかろうか。(やつは何もわかってない、とか。実際そうなわけだが)



ちなみに、アメリカ人が実名の人が多いようですが、という根拠はどこにあるんだろう?
よしんばそうだとして、日本における個人特定の容易さと、アメリカにおけるそれには天と地ぐらいの差があることをこのインタビュアーもしくはこの編集者は知っているだろうか?
さらに、厳密にいえば、アメリカには、日本におけるような戸籍に連動した「本名」というのはないと考えたことはあるだろうか? 一例は、アメリカだったら誰でも知っているように、ビル・クリントンは本名ではないのだがそれで通ってる。自分のセカンドネームを入れたり、抜かしたり、さらには、ファーストネームを略したりちょっと変えたりなんてことは日常茶飯事だし、名字を略している人もいる(あまりにも長くて誰も覚えられないとか)。


さらにいえば、チャイニーズ、コリアンを代表例として、本来のその人の人物特定にはまったく関係のない、英語名を通常の名前として使用してる人もいる。

また、ヨーロッパ人たちは、パヴェルをポール、マルガレーテをマーガレット式に、別の名前とまでいっていいかわからんが、しかし、同じ名前とは言えない名前を英語での本名として使用している人もいる(チャイニーズなんかも要するにこういう発想なんじゃないかと思う。言語が違うんだから名前変えた方がいい、みたいな)。

この中にある本名とは、「適宜」、場に応じての本名だといっていい。つまり、パスポート申請とかいうなら出生証明書に書いたのと同じのを書くだろうが、ビジネス上の本名はこれで通ってる、だからこれが本名だ、があり得る。


クリントンの名前についての噂話。これは事実関係を私個人が詰めているわけではないが、噂によれば、たしかチャイナに入国する時に、クリントンが持ってた書類だかなんだかとパスポートの名前が違う、しかし目の前のこの人物はクリントンというたった一人の人であることは間違いはない、が、しかし書類上、規則上これは通せない、どうしたらいいのか、ってのがあったらしい。繰り返すが、ヨタかもしれない。しかし、ヨタにしても重要な点をついている。)


と、既存メディアが、特に日本において信用失墜の勢いが著しいのは、要するに、日本のことも相手先のことも知らずに書いているものが多すぎるということかと思う。恣意性とういほど大ごとでもないのかもしれない。さらに悪い話だが。


話はもどるが、おそらくCNETの記事を書いた人は、いわゆる左翼にシンパシーを抱いている人なのかなと見えるわけだが、しかしだ、「人々による人々のための草の根ジャーナリズム」と言えない、歓迎して迎えられない左翼ってなんだよ、おい、と私は非常に奇異に思う。その意味で、西海岸のおじさんにはまったく気の毒な気がする。