小選挙区制で勝つ

昨日の選挙の後の総括などをいろいろ読んでいてふと、もしかして、実は、数多い評論家の人たちって小選挙の戦い方というのに本質的に見当がついていなかったしないのか? など思ったりもした。

小泉自民、ニューLDPとでもいうべきその党は大きな勝利をしたのだが、このインパクトのかなりの部分は小選挙ならでは、ではないかと思う。といっても、民主党支持者が負け惜しみのようにいう、得票率を比べればこれほその差はついてないんです、という見解を心理的に支持するつもりは全然ない。


finalventさんが、「小選挙区制度だとこれだけの地滑り(Landslide)起こすのだな」と書かれていたが、日本の現在の選挙制度小選挙区制を導入してはいるものの、比例がくっついているし、たまたま導入以来の選挙で盛り上がった選挙というのもなかったために、実は全体として、選挙というものを小選挙じゃなくて70年代ぐらいに普通だった感じの中選挙区の選挙のつもりで語っていたし、今もいるのかもなど思う。finalventさんみたいに目の効く人でなかったらなかなかそれに気づいていないのかもしれない。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/09/post_cb85.html


と偉そうに言っている私は、自分は偉くないがなんせカナダが、小選挙区制一本槍、比例ついてません、という選挙をやるところなので、自分がだんだんそれが普通のような感じになっていたところもあったのだなと今日になって気が付いた。
(結果的に、どう読んでも自民が勝つとしか思えなかった。)


今さらだが、比例のついてない小選挙区制とは、つまり、小さな選挙区で負けたらそれで終わりという簡単なもの。

だから、議席数と得票率は相関しない。

例として、去年あったカナダの総選挙の最終議席数と得票率。
     議席数     得票率
リベラル   135      36.7%
保守     99      29.6%
ケベコワ   54      12.4%
NDP     19      15.7%
その他     1      5.6%
総数308 過半数155


わかるとおり、ものすごい結果における差異をもたらす。得票率がいくら多くても全然結果には反映されない。反映されるのはオフィシャルな党として認められて政治活動上の資金を含む様々な(どんなのかよく知らないけど)ベネフィットを受けられるようになるかならないかと、クエスチョン・タイムの時間配分。


で、おそらくこういう、限りなく地すべり的になりやすい、まるまる政界の図が変わってしまうようなやり方は好ましくない(どういう理由であれ)ということで、日本の場合比例制をつけたのだろう。うわさによると、1993年のカナダの総選挙の与党の敗北というのは、小選挙区の候補者にとっての代表的な悪夢なのだそうだ。この時与党だったPC(急進保守党、現在の保守党)は、なんと2議席しか獲得できず、リベラルに政権を渡した。現有何議席だったのかちょっとデータが手元にない(探すのが面倒くさい。すんません;;)のだが、ここは連立を組む習慣がないので、基本的には過半数150近辺以上だったはず。比例だったらほぼ絶対にこういうことは起こらない。


と、見てきてわかるとおり、なんかものすごく乱暴な仕組みにも見える。しかし、いつもいつもドラマチックな結果を残すというわけでもなく、普通に接戦になることもある。が、何事か起こった時には、なだれを打ったようにボロ勝ちとボロ負けになる可能性の高さは、比例になじんだ人からしたら恐ろしい話だろうと思う。しかも代表者は一人。どれだけ候補者が大事な人だとしても落ちたら終わり。


この制度がもたらす1つの傾向は、私が思うに、選挙戦が、より戦略的になることだろうと思う。普通に考えればすぐにわかる。1社しか受注できないのだとわかったらすることはマーケティング、戦略。それもこれも、いい提案をすればそれでいい、のではなくて、勝たなければならないからだ。素材そものもの話とは別に、戦略が欠かせないものとなる。


と、なにか新しいうわっついたことを書いているように見えるかもしれないが、最強の作戦は結局、その上で選挙区に近づくこと、張り付くこと、言うところのどぶ板というやつを展開することだろうと思うので、結局長年地道にやってきたことと実際にはそれほど変わりはないのではないか、などとも見える。北海道5区のマッチー町村外務大臣がかなり選挙区に張り付いていたらしく見えたのだが、普通に考えるとなんでこの大物がビール箱の上で・・・だが、やっぱこう、手堅い三世(二世?)政治家だよなぁなど私は感心した。

ただ、日本の場合は比例との混合だから、ここで求められるイメージによった従来の代理店の仕事みたいなのと、おそらく二本立てで考えないとならないのだろう。でも基本の分量はあくまで小選挙区対応にしないとなんにもならない。


こう書くと、野田聖子型というか亀ちゃん型というか、なにしろ地域住民になんでもいいから訴えるみたいな(失礼なのは承知だが)型、つまり従来型を志向しているかのように聞こえるだろう。それはそれで嘘でもない。が、もしその選挙区民が、具体策を聞き分ける能力を持っていたとしたら(再度言うが亀ちゃんの選挙区の人がそうではないとは言っていない。候補者がそうしたかっただけかもしれない)、ビール箱の上に立つ人は、とにかく、彼らとの間に一定の理解をもたらし得るなにものかを持参しなければ、とても投票行動には結びつかない。そして選びえる選択肢を提示できていなかったら、人は選べない。
[14日訂正:亀ちゃんは住民が選ぶものを持っていったから勝ったのだろう。従って亀ちゃんの例はこの文脈ではふさわしくないので、亀ちゃんごめんなさい。]


自民、民主“基盤”奪う
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050912-00000017-san-pol

民主は平成十二年の衆院選で十七、十五年は十九と1区で確実に議席を増やしてきた。だが今回の衆院選では、自民が1区で三十二勝を挙げ、十三勝の民主に大きく水をあけた。つまり浮動票を確実に取り込んでいったのだ。その傾向は1区にとどまらず東京、千葉、埼玉、神奈川の首都圏でも、自民、民主の逆転現象が起きた。
(中略)
三重県知事の北川正恭・早稲田大大学院教授は「無党派層とは、次にどんな政権を選ぶのかという点に重点を置く人たち。前回の衆院選は民主に期待したが、今回は自民への期待に変わった。都市部ではその振幅度が大きかった」と話す。


無党派層というのをどう定義したらいいのかは様々な文脈によって恣意的に使われているような気もするが、党に密着していない人々、党と死活的な運命一体行動を取らない人と定義してみると、この人たちこそ、現代の世界では圧倒的なマジョリティというべきだろう。民主党の“基盤”などではない。それはたまたま一時期においてそうだったように見える以上のものではない。

彼らは一義的にA党、B党支持者ではないのだから、選ぶメニューがなければ行為できない。

小泉純ちゃんには、郵政を改革するんですよ、NOW、という明確なお題があった。さらには、外交についてもここからは少し変わりますよ、という示唆を提示し続けている。そして、それでいいですか?と尋ねているのだから、選択メニューはとても簡単。

その上、各地で自民党の候補者になっている人は、そもそもこの選択メニューに反意を翻す人は切られている以上、同じメニューの上にあることが前提だから、おそらくとても戦いやすかったのではないかと思う。戦いやすかったのを小泉人気のせいと思っているかもしれないが、そうではなく構造的に政党のプラットフォームと一体化していたからだ(今までそうではなかった方が驚きなわけだが)。
*この点から考えた時野田聖子氏を復党させるのは完全な誤りだ。彼女はそれを理解していない代表例として使うべきだ。


こう考えてくると民主党が取った行動が投票に結びつかなかったとしても何も不思議はない。党としてのプラットフォームがない。何をしようとしているのか誰にもよくわからない。マニュフェストなるものを出しているが、個別の議員という、プラットフォームを住民に説明する役割を担う人々がそのマニュフェストにどこまでコミットできるのか、候補者も不安だったろうが、もっとまずいことには選挙民にそれを見通されている。つまり実効値がN/Aであるこ提案をしてきたのだ。これでプレゼンに勝てたらその方がどうかしている。


そういうわけで、ざっと考えただけでも、小泉自民は小選挙区制をよくわかった上で戦ったからよく勝った、といえるんじゃないかと思う。で、新聞がまず第一にそうだし、民主の選対もそうかもしれないが、小泉という強いリーダーに国民が幻惑されたぐらいに思っているように見えるのだが、そうではない。自民党の方が、人々がコンセントを与えることが可能な(反対でも)提案をしているからだ。そして、人気とかイメージに寄せて何かをしようとしたのはむしろ民主党の方だ(日本をあきらめない、などという失敗キャッチコピーを出して)。

民主党がまず行うべきは、俺たちってどういうプラットフォームを持とうとしているのか、を俺たちの間で合意可能な状態にまで書き込むことだ。誰が強いリーダーか、なんていうのでもめるのはその後だ。これは選挙なのだ。



ただ、多分、これってトリッキーなのかなぁと思ったのは、社会主義系統が強い国々では基本的に小選挙区制というのは不評なのかもしれず、そこにあっては、正しい政策さえ提示すれば国民はついてくる、といった理解が支配的なのかもしれない。つまり、国民が選ぶ主体だという理解があまりない、のかも・・・。民主党の選挙戦を支ええる組織といえば労組系しかないのだ、と言う話を聞くが、もしそうだとすれば、そこにこそ問題があるのかもしれない(別に労組を抱き込むことがいけないのではなくて、それは小選挙区制を戦う戦力としては不適格かもしれない、ということ)。


逆の方面からのトリッキー要素もあるかもしれない。日本の場合政治経済にかかわる知識ある人々、取り分け若い人々は、アメリカでの知識を武器にするか持ち込むかしている傾向が高い。しかし、アメリカは議員内閣制ではない。議員が不信任を突きつけて、あるいは逆に首相がcall an electionをするというタイミングはない。総選挙は大統領選挙ではない。


どういう点から考えても民主党小選挙区制及び国民とは選ぶ主体なのだ、というのを理解して選挙をしていたとはほぼ思えない。