集団知の暴走は歪曲報道と「知識人」が原因

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050823


毎度まじめで示唆に富むエントリーを起こしてらっしゃる「圏外からのひとこと」紙の本日のエントリー。昨日の分からあわせて非常によく見てらっしゃって非常に的を射た論考と拝察いたしました。


上手なお話を下手にまとめる愚をあえて冒せば、「集団知」の位相が変わったということなのだろうと思う。でも別にこれは新しい話ではなくて、もうずっと前からそのように受け取られていたのにもかかわらず、それを言語化するポジションにある人たちが頑として受け付けなかった。従って言論上認知されないシステムになっていた。しかしそれはもう動いているってことかと思った。


で、集団とくれば、衆愚に陥る、全体主義になる、みたいに考える人たちがいて、氏の論考もそれについて少し遠慮気味に考察をされている。私としては、上のように考える筋道はある程度わからなくはない、が、そういう言辞を簡単に吐く人々はひとつ大きな忘れものをしている、などと言いたいと思う。つまり、誰かがまとめて、これが全体の言辞だと表示しなければ、全体主義なるものは機能しない。いや、存在しないと言ってもいいかもしれない。全体主義とは多分、パブリケーションの問題なのではないのか。そして、全体主義が苦しいと感じるその人の体験もしくは想像(日本語を読んでいるたいていの人は経験していない)は、おもに異なった言論を禁じられること、異なったことを思いつくことへの恐怖こそがその主たる原因ではなかろうか。でなかったら、一体何が怖い?

衆愚政治から全体主義への道は、マスコミの歪曲報道や権力によるメディアの恣意的な利用が主たる原因だと思います。私は「知識人」という言葉を「自分が大衆より良き人間と考える人」という意味で使っていますが、森田実氏のような「知識人」は、そのようなマスコミや権力と意識的無意識的に共犯関係に陥りやすいのでしょう。

まさに、と思う。
率直にいえば、社会的言語に習熟していない人が多い社会にあってはこれら「知識人」なるあたかも「導師」のような人にも役割があるんだろうが、ある社会が成熟し、あるいは変革の後にその変革を自らのものとしてしまった時、導師は、あるべき方向を示す人ではなく、群れの中の単なるリーダーになっていくしかないということじゃないのかな。ある意味で、神の代理人は不要だが牧師はいいよ、というのと似てる。