死体損壊はやっぱやめてね


しかしこう、世の中が相対的に見れば平和であろうか、と思える時間があるとしたらこれは奇跡なのかもしれないと思わされる夏のはじめではある。

まさか、食人習慣は人権とは関係ないと堂々と言える人が登場するとは先週までは思いもよらなかった、というのが私の正直な感想。ともあれ、まぁこういう法律もあることだし、最低限のガードはあるのだから、失礼ないい方になるけれども、個人の言辞をこの場合にはあまりマジに取らないで暮らしたいと思う。そうでなければ恐すぎる。

死体損壊
死体の損壊は、多くの社会で死体遺棄と並んで、上記に述べた故人の尊重などの理由により、忌み嫌われる行為である。過去には快楽殺人の一種で殺人後に遺体を食べた事件も報じられているが、これも死体損壊の一種として扱われる。正式な葬儀手順に拠らず勝手に焼却したりする事も、同行為の範疇と見なされる。(下記参照)


なお一度埋葬された遺体は、墳墓も含めて故人に対する尊重の対象となるため、墳墓の損壊を含めて埋葬済み遺体の損壊は罰せられる対象となる。


日本では刑法190条によって罰せられる行為として扱われ、懲役3年未満の処罰対象として扱われる。また埋葬された遺体(墳墓を含む)を損なう行為は191条によって3ヶ月以上5年未満という罰則が設けられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E9%81%BA%E6%A3%84#.E6.AD.BB.E4.BD.93.E6.90.8D.E5.A3.8A


wikiの一部だが、さすがに、「論争多し」みたいなマークはついていなかった。よかったよかった。


ただ「墳墓も含めて故人に対する尊重の対象となるため」は理由として弱いかなとは思った。もう一つあるだろう、大事なことが。人間は一人ではないという点だし、誰にも映らない人間はいないという点だ。



想像してみれば(みなくてもだが)わかると思うが、問題は、死体を食う、なのだ。しかももしそうした事件が発生した場合、多分それは死者の意志でもあるまい。


自分の娘が不幸にも死んだ。その時それは確かに死体だが、人々は死体とさえいいたくなくて、遺体という言葉で少しぼかした表現(ってこともないという理屈もあるように思うが)を使用するのを常とする。


さてこの時、この娘が誰かに食われる。それを食う人がいる。それってその親や兄弟やじいさんばあさん、さらには友人知人、あるいはまた赤の他人にとって、関係ない話か?



私はそうは思わないのだが。人の死とは、物理的な死であると同時に残されたものにとってのネットワークの欠損、失うこと、の方にも大きな意味があるのではないかと私はかねがね考えている。だからこそ、歴史的にどこの人々でも、程度の差異は大きいのだとしても、墓を作り、葬送を欠かさなかったのだろうと考えたりする。


そういえば、そういうのは過去の因習だといった理由だったのだろうが、コミュニストの国家は実際葬儀習慣とかも変えたか、少なくとも変えるよう指導してたのじゃなかったか。そのわりにレーニンとか毛沢東とか、まったく不可思議なまでに保存一辺倒なわけで、これはある種の思想の表明だったのかな、とそういえばローマ法王死去の時も疑問に思ったがそのままにしてあった。そのうちゆっくり考えてみたい。


確かこの本「世界の葬式 松涛 弘道 著、新潮社 1223円」にそんな話がでていたと記憶する。若干古い本だから逆に参考になるかもしれない。こんへんの、「エライ人」でない人たちの習慣なんかは、ソ連崩壊後やチャイナ体制変更でどうなったんだろうか。機会があったら調べたい。