ざわっと違う

ふと思うのだが、日本って、死体を紙媒体およびテレビで表現してはいけないという規則があるのだったか? いや、内規などではあるだろうし、あったような気もする。というか、仮になくても出さないじゃなくて、編集者にも想定読者にも心理的な抵抗感が大きくて事実上出せないのでないか。ただし事故や偶発的な事件の映像を除く、と。


とかいうのも、今日の新聞の一面はどこも法王についてなのだが、私が見た中で、3紙中2紙の一面の写真は法王さまだった・・・つまり、それは死体の写真だ。町中のいたるところに、家々に、オフィスにランチタイムに死体の写真があったということ。


National Postは、ここにある小さい写真のどでかい版が一面だった。
http://www.canada.com/national/nationalpost/news/story.html?id=9556ed34-29ed-4643-b036-27643e149ab1&page=1


日本で出てる? ネット上で見た限りは写真はないようなのだが。知ってる人がいたら教えてください。


ものすごく、ざわっとするほど「私たち」は違うよなぁと今日は道行く西洋人顔の人々がものすごく遠い人のような気がした。


ブッシュ大統領夫妻参列へ ローマ法王葬儀
http://www.asahi.com/international/update/0405/004.html?t5


こういうニュースで見てしまうと、肌感覚なしに、ただの偉い人になっちゃうんだが。



ヨハネ・パウロ2世の84年、ナチス共産主義を超えて
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200504030013.html

基本情報がよくまとまってる。


Pope's gift to native Poland
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/4408387.stm

おだやかな現地ルポみたいな体裁だが、どうしてどうして。きっちりこの法王様の動向が示唆し続けていることの導入みたいな記事だな、これ。興味のある方はタイムラインの整理にどうぞ。いずれ話題になることもあるでしょう。


…これは、あれだ、レーニンとか毛沢東なんかの死体についてもそう。日本の左翼は、さすがに、嫌みたいなのだ、面白いことに。
 このあたりの感覚は非常に面白い。


上の私の「ざらっと違う」についてのfinalventさんのご意見。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050405


私もそれを思い出しました。となると、この基本線の出会い方はなんでしょうと、おほほといろいろと悪くいえば妄想、よくいえば知的情熱(あるのか、私、という問題はおいておいて)をかき立てられる事件でもある。実に実に興味深い。


でもって、これはつまり、彼の存在そのものが完全にパブリックだっていう意味なのかなと思う。そして、渦中にある人たちに聞いても答えはないだろうと思う。デフォだから。


で、神の代理人にプライベートライフがないってのは論理的だなとか思うけど、じゃあなんだ、レーニンもそうなのかと思うと、まぁそうならそうでいいのだが、それじゃなんだ、ものすごい仕組みを作ってたんですねと言いたいものはあるし、そうなら、日本はそのへんの仕組みを作れるわけもないわな、わはは、と思った。


「お別れ」の際に、婉曲にはその死せる人に会う、直接にはまぁ見る、という仕立てが、ささやかでごく近親者だけでなく、何万のオーダーで催され、それがテレビで放映されるというのは、日本人でこういう扱いをされた人はいないよな、というのは確認されていいだろうと思う。

ってか、今後もできないだろうと思う。


(言うまでもないけど、日本人にはできない、って書くと、それを劣ってるとかそうしないといけないものと自動的に読み分ける人がいるような気がするけど、そんな意味ではまったくない。この差異を確認したいだけ。そのためには、通常こうした場合、「今後もできないだろうし、私はそれでいいと思っている」と書くのが通例かと思ったりもするのだが、私は後段を付属させる必要性さえ認められないほど、できない、マル、でいいんじゃないかと思ってるからそうは書かない。)