模擬裁判なのか民衆裁判なのか人民裁判なのか


「当代江北日記」さんが、1/19付けで、問題となっている団体VAWW-NETの声明について、「これでは「模擬裁判」と「民衆法廷」の本質的な区別についての説明になっていないと考える」と表明され、英語版では、模擬裁判という表現が使われていると記されていた。
http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050119


私の疑問はおそらく「当代江北日記」さんとは違っているんだろうと思うんだが、私もこれらの語の使用については気になっていた。


(1) 日本語でさんざん「民衆法廷」と書いておいて(あるいはそう広報されている)、英文になったらmock trial 模擬裁判とはこれいかに?
(2) 民衆法廷人民裁判は違うのか?


これが私の疑問。


どこから行っていいのかわからないので、とりあえずwikiでは、主催者は「民衆法廷平和運動反戦運動の一環として開かれるので、騒乱状態で多数者が法律によらずに少数者を私的に断罪する人民裁判とは区別されるとしている」のだそうだが、人民裁判と同じじゃないかと言う人もいる、だから報道機関などは「民衆裁判」のように、「 」をつけている、と説明されていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E8%A1%86%E6%B3%95%E5%BB%B7


私は、どちらも、people's tribunalか、courtあたりかなと漠然と考えていて、つまり等価と捉えていた。不勉強なのかしら? 英文のwikiには、このどの組み合わせもない。


ちなみにしばしば言及されるラッセル法廷は、Russell Tribunal。これは知っていた。
wiki、英文は、
http://en.wikipedia.org/wiki/Russell_Tribunal


本論からはずれるがラッセル法廷と今回の法廷を一緒に語るというのもなぁ・・・ではあると私は思う。あの場合、現に今起こっていることに対して反意を収拾し、人びとのアテンションを引き起こす、デモンストレートするためにやっていることがはっきりしてたわけで、だから誰でもわかる通りの政治活動だったわけだ。対して今回のは・・・まぁ、同様に政治活動だというのならそれでもいいわけですが(であれば公共放送に何用あって問題が紛糾、と)。


で、wikiに戻って、ラッセル法廷はアメリカからはshow trialと呼ばれた、とある。そのshow trialを見ると、しばしば独裁体制下で行われ云々、弁護側は殆ど自己を正当化する機会は与えられず云々、有名な例として大粛正時代のモスクワの裁判と、ようするに「見せしめ裁判」という感じか。でもラッセルは別に見せしめじゃないからこれではおかしいので、「見せる裁判」か。(英次郎には、「世論操作のための裁判」と、あはは・・・。


ま、もちろん、それはアメリカの視点だと言ってもいい。アメリカは人民共和国系の発祥の地のようなものだとも言えるがここ数十年は、裏はともかく公式な敵だ。誰も違うとも言うまい。ラッセル裁判は、Possible show trialの中に括られている。

Show trial
http://en.wikipedia.org/wiki/Show_trial


ではそのmock trialはといえば、これは完全に、「模擬」のことだと扱われている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mock_trial


この状況から考えると、日本語の文言で「民衆裁判だ」と言いながら、英語では「模擬裁判」です、というのは、テクニカルには間違いではないが、主意としては微妙だ。


左派のガーディアンはこの「裁判」についての2000年の記事で、


People's court indicts Japan's late emperor for war sex slaves
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,408940,00.html


「People's court」という語を使っている。
人民裁判は亡くなった日本の天皇を戦時性奴隷で告発する


と、なかなか刺激的なタイトルだがそれはおくとして、文中では"people's tribunal"と使用。

The Women's International War Crimes Tribunal は、バートランド・ラッセルジャン・ポール・サルトルベトナム戦争中に米国の行動に抗議するために組織したhearing(公聴会)をモデルにしている。


これには法的な権威はないが、主催者は、このmock trial 模擬裁判が1948年に結審した東京戦争犯罪裁判が残こしたギャップを埋めると言っている。東京戦争犯罪裁判は天皇の罪、あるいは性奴隷について触れていない。当時、冷戦の同盟としての日本を必要としていた米国は、これらの問題は提示するにはあまりにも政治的で文化的に敏感だとみなした。

(川上暫定訳。原文気になる人はみにいってください。載せるの長い)


つまり、英語あるいは英語圏の了解としては、形態から見て模擬、主意から見てpeople's tribunalってところと考えていいのだろうとみえる。(1)は、だからトーンダウンに見えるだけだが、それでいいならいいかだが疑問点は残る。ガーディアンの件などはいいが、詳細がない場合はやはりmock trialと言われればそれぞれの国でのスタンダードたる検事がいたら弁護人がいてという形式をまず人びとは思うだろうが事実は違うというところ(その意味では、厳密には模擬とは言わない、かもしれないわけだ)。


では、戻って、(2)の「人民裁判」と「民衆裁判」の意味の違いはなんなか。どうも英語圏了解の中にこの語に差異があるとは見えない。どっちも、peopleじゃないかとみえるから。実際、日本語で「民衆裁判」と言っていたそれを描いた、決して志向的に敵対してはいないだろガーディアンが上のようにPoeple's courtと呼び、そうこられたら普通の日本語環境では多くの人は「人民裁判」と訳す慣行は存在する。

courtとtribunalについては本筋に関係ないので飛ばして、参考までに。
"people's court" の検索結果 約 127,000 件
"people's tribunal" の検索結果 約 7,740 件


仕方がないので、日本語環境で調べる。


「あなたの疑問に答える民衆法廷Q&A」
http://www.icti-e.com/index.html

A 民衆法廷をどのように進めなければならないという決まりはありません。民衆法廷自体、その歴史は浅いものです。ラッセル法廷、クラーク法廷、女性法廷という優れた前例がありますが、民衆法廷とはどのようなものであるべきかについてのまとまった研究も存在しません。


私たちイラク国際戦犯民衆法廷ICTIは、これまでの民衆法廷に学びながら、新しい民衆法廷運動を作り出すために試行錯誤を重ねてきました。その十分な結論はまだ出ていません。ICTIは、これまでの民衆法廷の系譜に連なりながら、新しい民衆法廷のモデルを提案しています。


新しい試みらしいです。


出どころは、The International Criminal Tribunal for Iraq イラク国際戦犯法廷、だそうです。
12月には、ブッシュだか小泉だかが有罪の判決主文(?)を言い渡されているそうです。


唐突に私の感想。

教室で職場でコミュニティで、年がら年中、小泉有罪、ブッシュ有罪が言い渡されているとします。それはそれで、ある一定の大人は理解するでしょう(たとえば主催者とか)。利口で怜悧な子どもなんてのも大丈夫でしょう。が、そうとも言えないかもしれない。人の感情というのは、ある時あるところで、集団で「有罪だ」と決せられ、さらにそれを見ていた、立ちあっていたら、それはそれで彼にとって現実なわけですよ。これを繰り返していたら、彼の、現実社会での価値体系と、自分と自分の回りとの価値体系は混乱しないのだろうか? 


しかも、ここがトリッキーだと思うのは、こうした「民衆もの」(へんだが)の多くの場合「国際」が付いている。彼の体験した有罪判決は確かに「国際的」なのだ。ただし、誰が賛同しているのか実際にはよく知らなくても。


また、もう一つ指摘できるのは、「有罪」の連発は何を求めることになるのか、という視点を欠いたままこの語を語る人があまりにも多くなってきていることへの危惧。どうもこの2年間、「国際的に」ブッシュは戦犯なのだ、戦犯なのだという文言が多く出回るよなぁと思っているのだが、たとえば彼が「有罪」だとしてだから何なのだ? 有罪だったら彼は刑の執行をされるべきなのだろう。また彼が有罪だからこそ、大統領だって、へ、笑わせるぜ、なのだろう。しかし誰がそれを執行する? 当然authorityが必要なのだ。刑の執行人が。ではそれは誰なのだ? 世界人民政府はないのだ。しかも、もとより、その「有罪」は、日本教育会館でいつ行われたか誰が知っているのかよくわからない判決によってかもしれないのだが…。しかし、この状況に区別を付けることは、言論上、そして個人の感情上非常に困難である。


私はこのエントリーの入りが明らかにしているようにこの問題についてあまり真剣に考えたことはなかったが、この先は、これらの用語、構成を安易に使うことには反対しようと思う。また、報道機関は、せめて「民衆裁判」についての意味を解説してからこれらの問題を語るべきだと考える。