みなさない

頭が痛い。具合が悪い、どこかおかしいとここ数日不愉快にすごしていたのだが結局風邪を引いている模様。脳内に異常が発生しているのではないのかと一瞬疑うほど頭痛がしたが、冷静に考えるとしかし痛みは脳ではなくて不調になると親知らずが痛むのパターンである(だったらその歯を抜けよ、なのだ)と見なし得ると判断し従って脳内異常説は却下しつつ、本日は真っ昼間から痛み止めを飲んで眠った。

それはそれとして、kmiuraさんが「 [memo] <出羽の守>」というエントリーで興味深い問題を提起していた。提起していたというか、まとめていらしたということだが。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20050111


この場合は、kom’s logさんの板の特性から、「海外在住研究者の立ち位置」(flapjackさん)について、が枠取りではあるのだろうが、私としては、海外に住む日本人、または、日本に住んでない日本人全般を枠度った後にでは日本人とは何を指しているか、とか、日本と個人の関係はいかに、の問題として考えたら面白いだろうなと思う。というか、それが問題なのだろうな、と思う。取り組みがいのある問題だ。


踏み込むための切り口として「駐在」とは何かといった問題もいいかなと思う。


駐在するというステイタスは、日本人が他の日本人を区別するために使用している日本人にしか関係のない語だと言っていい。カナダ人にとって駐在員の日本人も、永住権を取って住んでいる日本人もどちらも単なる日本人に過ぎない(国籍という意味でも)。つまり、現地に住むことになったか生まれたかした日本人ではなく、身は現在ここ、例えばカナダ、例えばドイツにあるが、私は日本に住む日本人ですと、日本人に向かって表明している。この慣習はかなり奇妙だ。


公式の役職にある、例えば大使館員が「駐在」するというのはとても意味があるわけだが(どこにあってもその大使館内は本国と同じだ、という意味から)、一般の企業で働く日本人が「駐在」するというのは何なのだろう。現実には日本企業だからといって日本の法が適用されるわけもなく、例えばここならカナダの法に従って人びとは暮らす。法の規制を受ける(日本法人としての規制は別途様々な形態があり得るが)。もちろん、どちらでもいい領域に関しては誰でもそうであるように、なんでも好きなことをすればいいだけだが。


ただ、これは日本人にだけ著しいというわけではない。結局のところ、例えばカナダ法人で雇用された人が日本国内で住んでいる場合、その他の日本にいるカナダ人と若干異なった「感じ」で暮らしているということはある。ただ理由は結構はっきりしていて、そういう「駐在員」の場合、その後の雇用環境や当座の金銭的な保証などがしっかりしていて単純に言えば「いい暮らし」になっているから、その他のフリーな立場のカナダ人より生活レベルが「上」であることが多く、そこに階層が見られることもある、ってなことになりやすい、ということでしかないと思う。現実問題として家を借りる時に不利がないみたいなのを見たことが何度もあるのだが、まぁなんつーか、通りがいい。あとは、社会主義国の場合などに多かったと思うのだが、事業の内容を問わず現実に「国」を代表しているからそれは実際「駐在」だったということもある。(そうか、日本ってそうなのか、と考えてみてもいいのか(笑))


と、アカデミズムでの研究者の人は普通は駐在員とは言わない。が、同じパターンを踏襲している人たちは決して少なくない。日本にポジションを確保しながら「海外留学」をしているというカテゴリーの場合、実質的には民間企業の駐在となんら変わらない。


しかしながら、どちらの場合でも同じように、日本以外で教育を受けてその現地その他現地で暮らす人が増えて来た。教育だけでなくても、なんらかの理由で日本を離れてそのまま日本でないところで暮らす人もいる。この人たちは日本の企業または学校に戸籍の籍でも座る席でもいいが、とにかくポジションがない。つまり駐在員ではない。さらには、1年たったら帰るよのワーホリでもない。


と、バック グラウンド を書いてみたものの特にまとめがあるわけではない。今日まとめようとも思ってない( 頭痛 いんだよ)。しかし、この状況をoverviewしつつ、あるいはそれが可能な状態から 日本人 なり、国や人、 個人 というのを考えてきた形跡というのは 日本語 における出版物において、つまり 日本 における思考の現れにおいてあまり多くはないのだろうと思う。


といって別に正解を探せといっているのではない、が、少なくともこれが、あるいはこれも現状ではあるのだ。それを、故意に見逃して行こうとしたくはないから、多分、上の エントリー が現れる現実があるのだろう。


新年早々いい問題にあたった気がする。


[捕捉]

さて。私は、この見解は心情的には非常によくわかる。むしろ共感すらする。
アメリカで研究する日本研究者を見ていると、自分の文化中心の世界観が鼻につくことがしばしばある。


新年に:(2)「土着の情報提供者」としての在米日本人研究者
http://munaguruma.air-nifty.com/blog/2005/01/post_1.html


むなぐるまさんの一言。クリッピングが見事だ。

牽強付会的にいえば「自分の文化中心の世界観」を展開する人というのは、つまり無理やり自分を「駐在員」ワールドの住人とし、それを「見る人」であるところの西洋人研究者に提供しているということなのだろうと思う。ま、両者にとってベネフィットがあるが、それは個別の誰かにとってはとてつもない苦痛である可能性は大きい。なぜなら、それは「日本人」というイデアに自分を合わせる作業だからだ。

[訂正:下のコメント欄の通り、この読み方は私の誤解でした。むなぐるまさんには大変失礼なことを致しました。
ただ、まだ言うのなら、そういうアメリカ人研究者の視点の対象になりやすいかどこかでなろうとしている研究者(に限らず言論者一般といっていいが)はやはりいると私は思います。ここに自分の興味があるために、強引でした。ごめんなさい。なにはともあれ、広く一読をおすすめします。]