「メリー・クリスマスでいいでしょ?」

誰の上にもメリー・クリスマス!
(私は今が25日なの)

と、こういう書き出しをすると、オレはクリスチャンじゃねー、とか言ったりする人もいるんだと思うんだが、こういうおめでたい言葉ぐらいそんなに目くじらをたてんでもいいんじゃないか、と、ずうずうしい発想だがそう思う。


そういうことを思いはじめたきっかけは去年のトロント・スターの1つの記事だった。
詳細はここに書いたので、メリー・クリスマスの代わりにseason's greetingを交わしている状況に心当たりがあり、かつ、それってどうしてかと思ったことのある方はご参考までに。北米暮らしのある種ベーシックな知識みたいな感じでもあるかなと思ったりはするのでその点からもどうぞ。


http://www.shobunsha.co.jp/html/owaranai/13.html
晶文社さんのサイトにある「終らない棒倒し」13回。*1)
マルチカルチャー:なんでもありの深謀遠慮?


「メリー・クリスマスでいいでしょ?」というタイトルのコラムが2003年のクリスマスの朝の新聞の社説の隣に掲げられ、その主旨は、上のseason's greeting的状況を前に、

どうしてそんなことを気にするのか、どうだっていいじゃないか、祝いたい人がいて祝っているのを見て気分を害したりしないでしょ、私たちはマルチ・カルチャー、複数の文化を受け入れる社会に生きているのよ、他のお祝いの機会を持つ人がいることと同じようにクリスマスを祝う人がいたっていいでしょ? クリスマスを祝っている人からクリスマスの挨拶をもらったところで何が問題なの?というわけだ。

で、ポリティカル・コレクトなことを発話しようとする人びととそれがもたらす不器用な状況を書いて、以下のように結んだ。

私は今この話を、ポリティカル・コレクトネスの話題から引き出したが、普通これはマルチ・カルチャラリズム(多文化主義)の帰結として語られることだ。両方ともアメリカの60年前後からの公民権運動以降に成された、ある意味で大きな達成物ではあるだろうと思う。そして、マルチ・カルチャラリズムの方は、すべての人に自身の、誇るべき伝統や文化があるのだということは、では私たちには共有の土壌を築くことはできないという意味ではないか、という疑問が残され、総じて言えば失敗した話として締めくくられ、そうではなくて文化的多元主義こそアメリカだったのだ、といったあたりで話が終わっているように見える。そうしてその後911がやって来て、今ではそうしたことを熱心に考えている人はあまりいないように見える。

と、カナダはこのマルチカルチャーを「まだ」やっている。まだやっているどころか、昨夏には同性婚を認めるどころか合法化しようという話にまでなり、その後幾らかの揺り戻しはあるものの基本的なラインは変わっていない。

マルチカルチャーというテーマは、これまでの政治的な配慮に足元を救われてきた経緯を超えて、どうあれ今後も大事なものになるんだろうと思う。で、その時キーになるのは、他人の喜びは他人のものだし、他人の悲しみも他人のものだが、私も三歩下がったぐらいのところから嬉しいし、悲しいわ、ってな態度なのじゃないかと思う。考えてみればどうってこともないことなのだな、これが。そして問題は、そんな話を政治的な意図に絡めとられないでどうやって表現できるのかというところになる。多分ここのキーは、マイノリティなんていないってことだろうかと私は思う。マイノリティはいる、それはみんな、と言い換えてもいい。あるいは、もっと実際的には、マイノリティはいる、XX(時間)現在の〜に関して、と、〜を決して抜かさないで発語することといった方が具体的か。


*文中誤記があります。慎んで訂正いたします。cerebrate→celebrateです。情けない。これじゃ脳かなんかみたいだ。