しんどい日もある

日中マイナス15度ってもう何よ、というすんごい一日だった。夜になってマイナス22度、ウィンドチル(体感温度)はもう30度近い。こういう気温になると生きてるって大変だなぁとしみじみ思う。


暖炉のある家が多いので暖炉から上がる煙、要するに水蒸気がもくもく見える時はすんごい日であることが多いのだが今日の街はまさにそれ。人の息も暖炉の煙ももくもく。その上、オンタリオ湖が水蒸気をあげていた。水温の方が圧倒的に高いので蒸発している。あとしばらくすると表面が凍ってしまうのでこういう光景も見らないようになる。


秋口に、こんなことならカナダへと言っていたアメリカ人にとって最大の難関は疑いもなくこの気候だろうなぁ。


さて、18日のエントリーには、ほぉと思うようなコメントがついていた。そうかぁ、カナダに住んでる人になんか言われたくねぇよと思う人がいるんだろうなぁとあらためて思った。そう考える人がいても不思議ではないとはかねがね考えていたが、考える途上でいつも思うのは、私が東京から書いた場合はでは何が異なるのだろう? ここにうまい答えが見つけられない。私は多分というかかなりの確率で東京で暮らしていても同じようなことを書くだろうし、実際言ってもいた。単純にその頃ブログがなかったからそうできなかったが、というのにすぎない。が、場所が変わるとそこにフォーカスをあてて、あなたは日本にいないからわからないと言う人は、今回のようなある種あまり理解の訳に立つようなやり方ではないやり方でではあるが、いることはいる。やんわりと、議論をする人としてのクオリティに問題のないやり方ではあるが。


さて、ではどういう人なら日本について語っていいのか。まちがいなく、日本人でもなく日本に住んでもいない人になんか言わせたくない、などと考える人はいるのだろう。この是非はどういうものだろう。これは考えるべきものがある。


そうして、では日本に住んでいて、でも日本人ではない人が日本について語ることはどうだろう。これなんかも憤激をかいそうだな。


ところで、私は洋の東西を限らず歴史というのが好きでしばしば歴史関係の本を読む。今日読んでいた本の一説は、優れた歴史の本だけがそうであるようにこの本は過去のことを描いていてそうして実際には現在を描いているとあった。疑いもなく私は日々のニュースを追うごとに、それら歴史的叙述を思いおこし、その精査を勝手ながらもいろいろと行い、その上で個別のトピックを考えもするし他人と語りもする。この時、私はなぜドイツの歴史についてそんなに語ってもいいのだろう。

他人の一言はそれがどんなに馬鹿げていて、取るに足らないもので、向けられた者にとってその瞬間は大きな憤激を引きおこし水蒸気をあげて極寒に突進するオンタリオ湖のような状態であったとしても、必ず何かを生み出す。反証のない考察はないから。ただ、そういうしんどい日をどうやり過ごすのかについて若干の知恵と経験が要ることは要る。