西洋人のマネというトリック

先回りして書いておこう。

例えば、私が、

日本語環境ではあまり馴染みがない語のように見えるが、step mother/father、biological father/motherという語は、幼稚園の子どもでも普通に言うなんつーか、当たり前の語となって久しい。


などと書く(blockquoteが使えるようになったの(^.^;;)。

すると必ずどこかで、西洋(または欧米、カナダ、アメリカ任意に)の真似をする必要はない、私たちには私たちのやり方がある、と書き出す人がいる。それはそれでもちろん結構だ。また、どういう考えをもったところでその人の自由だからそれ自体は別になんでもやってくれ、だ。


が、この構造には私たちはもっと気を払っておくべきだと思う。つまり、あまりにも長らく、「欧米では」の言うところの「出羽の神」にさらされた反動だかなんだか知らないが、逆に、外地(笑)での様子などが来ると、拒否感 vetoか? が先に立つ人がいるのだが、外のものであるが故に拒否するというのは、理屈にあわないし、自ら選択肢を減少させる行為だ。


資本主義の様相が変化するにつれて、またはグローバルな社会になればなるほど、個々の社会構造は変化していくのだし、人びとにとってこの方がいい悪いというアイデアも変化する。この時、伝統、洋の東西ごとの固有性というアイデアは、上手に、精密に使用していかないと、単なる「オレは変わりたくない」宣言にしかならない。まだしも「オレたちは変わりたくない」宣言ならいいわけだが、多くの場合論者が弱者やら庶民やらを人質にして、「だからオレたちは変わらない」という言明を求めているのにすぎない。そこで結局は、その変化した社会構造にフィットした形での言明を開発する機会を失い、それは広範囲の、主に言論の機会を持たない人びとにとっての不利益をもたらことに貢献する。


[捕捉]
上手くかけてないので一言追加すると、「西洋は」と言った途端に、西洋だろうがカナダだろうが、そこも変わっているのだ、そこも近代化して、現代化して、さらになんだかわからんけど常に変化している部分はあるのだ、という視点が失せる、これが問題だと思うのだ。