「Stepmom」

リンクされたところを見に行ったら、家制度を良しとするなど頭の悪い女性だと書かれていた。10日ほど前に私は、このように書いた。

この制度は戦後一貫してエラク評判が悪いけど、この擬似血縁的な仕組みは、現代にとってみればかなりポイントの高い思考習慣だったかもなとこの頃思う。悪くすれば個性の圧殺だが、上手く使えば、血よりも契約、共同体成員となること、ま、メンバーシップが大事だと考え得る習慣ではある。メンバーとしての役割を果たせないと実子であっても「廃嫡」、で、これが法制度的にはどうあれ心情的にはlargelyに今に至るまでacceptableなのだな、私たちの社会は。


私の頭が悪いのはまったくその通りなのでそう言ってもらって全く問題はないし、私の発言自体私の単なる考えにすぎないのだから、それが批判にさらされるのも結構なことだ。が、なぜ家制度が悪いのかについての理由を読んで、はぁと力が抜けた。


家の存続のために婚外子となった子どもがどんなに苦労した、辛い思いをしたか、そういう不道徳を無視するのか、ということだった。


婚外子、または正妻以外の子どもとなったために苦労をしましたという話は別に個別の意味での、つまり日本の家制度でなくても発生する。第二夫人の子ども、第三夫人の子どもは第一夫人の子どもに頭があがらない、というケースもあるし、夫人は一人と決められていても、それ以外の妾腹、または愛人との間の子どもがずらずらいるという話は世界中のどこにでもあるし、今もある。


大雑把にいって現在の世界の主流とみえるのは、一夫一婦制度らしく、さらに、愛情のある関係でなければならないという規定も存在する。となると、離婚が多発するのは止められそうにもない。この場合は、考えようによっては、一夫一婦制度と愛情ある結婚という法(慣習的、思考的)を守るために、人びとの方が妥協しているとも言えるかもしれない。


さてしかし、結婚制度は多発する離婚によって守られたとしても、付随的に発生する子どもはどうしたものか。妻を捨てた(夫でも)ので子どもは俺(または、あたし)のではない、ってなわけにもいかんだろう、両方の子どもなんだから、ということで、子どもは、生物学的両親と育ての親というのを適宜使いわけることで、この結婚制度の維持に貢献している。


日本語環境ではあまり馴染みがない語のように見えるが、step mother/father、biological father/motherという語は、幼稚園の子どもでも普通に言うなんつーか、当たり前の語となって久しい。


友人の一人は、この間「わぁ、あなた私のmomにそっくり」と言われて、その青い目をした、つまりあきらかに白人らしい白人の顔をした子どものお母さんが、なんで日本人らしいこういう顔した私に似てんだよ、と、心の中で「んなわけねーだろ」と思い一瞬ぎこちない笑みを浮かべたところ、その子どもはすかさず、「Don't worry, she is my stepmom, Chinese」(心配しないで、彼女は私のステップマムで、チャイニーズなのよ」と言われたそうだ。ああ、それならあるわな、と私の友人は納得しつつも、幼稚園児の方が大人を読んでるってのがすごいよなぁと感心していた。


私のまわりでもそういうのは多発していて、クリスマスのパーティーで、あれ、上の女の子はどうしたの?と聞いたら、彼女は彼女のbiological motherと過ごすことにしたからXXに行っているんだよ、とかなんとか、普通にある。お父さんは他の女の人と家を出ていってしまったので私はお母さんと二人で暮らしているのよ、とか子どもが自分んちの状況を述べもする。


そういえば、何年か前に、「Stepmom」という映画があった。スーザン・サランドンジュリア・ロバーツの映画で、日本でも受けるだろうなと思っていたがこのタイトルはどうするんだろうかとちょっと興味深く見ていたら、案の定、「グッドナイト・ムーン」たらいう訳のわからないタイトルになっていた。やっぱ、「義母」じゃなぁ、とも言えるけど、思いきって「ステップマム」にしていたらどうなのかなと私は思ったりもしたものだった。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31342/index.html


さらにいえば、今現在のアメリカ、カナダでかまびすしいのは、両親とは男と女のペアでなくてはならないのか、だったりする。つまり、ゲイ、レズビアンカップルが子どもを養子にして育てるのの是非が問題になっている。

ここには2つの問題があって、1つは、前申す通り、男女ペアじゃなければならないのか、もう1つは、子どもを養子にすることの是非。普通は1つめの方にだけフォーカスがあたっているが、実際には、実子でない、まったく関係ない子どもを養子にすることに対しての拒否感を持つ人も少なくはない。雑駁に言って、生物学的に連続した子どもを生ませりゃいいじゃないか、精子バンクもあれば高齢出産も相当なまでに可能なんだから、とどこかで思うらしい。つまり、後者はあきらかに血統は連続すべきものだと考えていることになるし、現実問題として、なにがなんでも実子をという人がいるから諸々の治療はペイできているわけだ。

また、出産に関していえば女性の方の限界の方が男性に比べれば大きい。年齢があがれば限りなく無理に近付くが、男性は、上原謙またはアラファト方式が可能だ。これもまた、実子への限りない愛着であり、それは血族でなければいかんというアイデアが保存されていることと考えることもできるだろう。アラファトなんかはまさしくそうだろうと思う。このリージョンでの血族、分けても実子である男の子とは、俺のために戦ってくれるヤツという比喩が今でも使われているわけだし。


と、これらの状況を概括して、「婚外子となった子どもがどんなに苦労したか」の原因が「家制度」にある、というのは、なにかこう、部分的、個別的、個人の心情的には正しいとしても、社会学的理解としては、相当に足らない話ではないのだろうかと私は考える。


家制度、戸籍制度があるからいけないのです、との批判によって、たとえば戸籍というアイデアをなくして、個人ベースのID化に成功したところで、社会内で親子関係を仕切る言語=アイデアが流通していないことには、個人を笋訃?靴砲亘悗媛燭諒儔修發覆い世蹐Α2叛?戮?覆?覆辰燭里任后⊂〕?任后??ってみたところでむなしいだけだ


で、雑駁にいって、むしろ事態は逆になりそうな気もする。過剰な「実子」尊重に入っていくのではないのかな。日本では(日本だけではまったくないが)もともと母系相続的な発想を強固に持った人が多いから、子どもが女性のものになっていくという、「民衆」レベルでの本家返りが起こりそうな気もする。


「Stepmom」こと、義母といえば必ず悪いもの、決していいことにはならないと前提されてないか? 
同様に、biologicalなお父さんと一緒にいない子どもを当然のように気の毒だと前提していないか? 
そういう前提で言語を編んでいる限り、それは実子尊重派を喜ばせていることに自覚的か? 
そして、それはそうしたいからそうしているのか? 

(お姑さん/配偶者の女親とは決してうまくなどいかないのだと訳知り顔に言ってまわる、悪意に満ちたおばさんのようだ)


また、それは例えば、家制度はいけないんです、とかさんざん言ってるおじさん/おばさんも、結局のところ、おじさん/おばさんがこさえた又は親から受け取った財産を実子に相続することには全く躊躇がないという意味でも、実子尊重、他者の血が入ることへの禁忌を増大させることの勢力は増大しているかもしれない。


と、多分ここにキーがある。家制度とは、実際には、財産をどう相続させるかに関して開発されたアイデアなのではないのか。財産には家土地もあるし、有形無形の諸々を含む。親がせっせと集めたネットワークかもしれないし、家訓といったものの考え方かもしれないし、本の山かもしれない。そういうものを誰のものにするのかについておおよそ2つのアイデアがある。1つは、血を分けたものが取るべきだ。もう1つは、その「家」を存続させるために必要な人材が相続すべきだ、と。現実にはこの折衷案だとしても。



ところで、家の制度は、左翼の人は伝統的にこれを武家の問題として考え、したがって支配層の習慣と見なすようだが、私はこれは、広範囲に商家(商業プロパー、職人商家を問わず)に見られるものだと思うし、今でもその感じは残っているだろう。芸事における「家」などまさしくこれだ。


そしてこのことから、もう1つ伝統的な左翼解釈に対しての批判が生まれる。家制度は封建的なものではなく(前はそう言ってたと思うが)、明治政府が戸籍制度でこの家制度を固定して国民をコントロールしやすくした、というもの。

明治政府のやったことは相当に場当たり的なものが続くから、そこに連続性を見るのもどうかとは思うこともしばしばあるのだが、ともあれ明治政府=コントロール主体にとって当時必要だったのは、忠君愛国的態度の国民だ。「家の子」ではない。家長がどうあっても是としないことに従うわけにはまいりません、と子が言うようでは困る。武装自弁の農民/兵士がお家の一大事として、政府の方針に逆らうようでは困る。だから、彼らが必要とし、実際そうしたのは、家の解体と見るべきではないのか。左翼の人はしばしば、一君万民、「天皇が親であり、国民がその子である」というアイデアのために儒教を使ったのだと言うわけだが、これはだから、家は解体されているのじゃないのか?


まとまらないのだが、WWIIに流れ込むまでの戦争の状況を考え直さないとならないのと同じように、この問題もまた考え直さないとならないのだな、というのを本日の結論としておきたい。


結論後の一種の感想戦として、ここ50年ぐらいの日本の教育やらアカデミズムを仕切った人びとの根本的な動機というのは何なのだろうか、など言いたくなる。少なくともそれは知性と相容れず、愛とも関係がないものであったことは疑いもないような気がするな。多くの個人によって考えられたという形跡がないし、では私たちはどうしたらいいでしょう、という取り組みへの足場も用意されていない。批判のための批判と、まぁそういうことなんだろうか。