誰のものでもない生であるのなら

私はなけなしの理性を失うほどに腹をたてている。


この死を無駄にしない 人間の盾、木村さんに父
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=soci&NWID=2004103101002711

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同席した母親の節子さん(50)は泣き腫らした目をしていたが、木村さんが「1粒の麦は、地に落ちて死ななければ、1粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」という聖書の言葉を引き「息子さんは1粒の麦になったんですね」と問い掛けると、張りのある声で「先生、その通りなんです」と答えたという。

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彼の死は誰のものでもない。他者の死を何かのためになった、と考えるのは他人の算段だ。


この人はそれをわかった上で言っているのか? (多分そうなのだろうが) 

さらにいえば「先生、その通りなんです」に「張りのある声で」というおめでたい副詞句を付けた記者に私は問いつめたい。誰だって、まして親なら子どもの死に意味をもたせたくなる。その時、1粒の麦云々は格好のモデルとなるだろう。しかしそれを決めるのはそれら両親という個人の判断であって、それは彼らの感情と理性の中で決めればいい。今ここで誰かに先導される必要もないだろうし、それをパブリックに報告される必要もないだろう。だったら私も黙っていろよ、という考えも当然あるが、これが出ている以上、私は抗戦すべきだと考えて書いている。


訪問日は偶然だったそうだが、私はもし他者の死を悼む気持があるのなら、なぜその偶然をやめなかったのかとの大きな疑義を持つ。

これについてはまた後で書く。