あきれた

今ごろ「あきれた」宣言を出す私はむしろ相当につきあいのいい人の一人なんだろうな多分とか思ったりもするが、aml(alternative mailing list)の投稿記事を見て言葉もない。このへんの人たちはもう少し筋目を通してものが言える人(少なくともそういう人もいるだろう)と思っていたりもしたのだが、そうじゃないらしい。
http://www1.jca.apc.org/aml/200410/41574.html

                • -

ことを自己責任論が再出現する前に、最大限、全国にアピールしましょう。
そのために、日本の沈黙しているマジョリティを、わたしたち市民ひとりひと
りがどこまで動かせるかが、鍵になるでしょう。
日本全国で、そのためのうねりをわき起こらせようではありませんか。

              • -


だそうだが、自己責任論って前回のは過剰が過ぎたにしても、結局とても大事だと思うんだが私は。それを避けて通ろうとする行為には私には不審以上のものがある。今現在イラクに行くという選択をしたのならそれは当然小山のような自己責任論をかまされてもしようがない状況だと本人が認めたものだ、そうあるべきだと考えられないのなら、彼らに社会を論じる資格などないとさえ私は言う。


結局のところ彼らの国家観はとても村社会的なものにみえる。国家が自分たちのもの、自分たちがマネージしているものだという意識がないのだろう。彼らにあるのは、上のもの、主人というより親のような存在としての国家だ。だからなにを言っても自分に跳ね返られない。ある臑はかじるものだと。しかし近代の国家とは他者の集合体だ。


ちなみに、日本語の中で私がかねがね不思議に思っている言葉に「市民」というのがある。私にとって市民とは、Canadina citizenとかAmerican citizenとかのcitizenのことだ。そしてこの語は普通の翻訳環境では「国民」と呼ばれている。これは少し考察が必要な部分でもあろうが、概算で別に間違いではない。結局のところ、citizenとはどこかの所属員、それも正式で満額の構成員である人ということだ。だから、Americaを離れてAmerican citizenは存在しないし。また、「私たち市民は」というのは、二つながらの言葉を持ってしまった日本語では「私たち国民は」というのと等価でなければならない。が、実際にはこれらは別に意味内容を持って、あるいは使用環境を持って存在している。この分岐、気づかわれてますか?