グローバルフェスティバルとしての米大統領選

これからあと一か月、アメリカの大統領選の話題が紙面やらブログやらを覆うのだろうが、これって本質的にどういう意味があるのだろうかと考えたくなる。いや別になんでも個人の楽しみなんだからいいんだが。


日本を含むアメリカ以外の人がこれを注視するのは、単なる楽しみを除けば自国にとっての事の推移を考えるからではあるんだろう。つまり、A. ケリーだったらこうなってブッシュだったらこうなる;B. オレ的にはブッシュ(or ケリー)の方がいい:C. さあどうなるか、という構図。


しかし一般的には人びとは、こういう見取りをしているようには見えない。見えるのは、ブッシュかケリーのどちらが正しいか、とか、どちらが信頼できそうか、とか、どちらがっ大統領にふさわしいか、だ。


しかし、アメリカ国民以外にとってこの見方は実際問題として無意味である。後で論評しようという楽しみのためにするのでなかったら、それは例えば中村屋の跡継ぎとしてふさわしいのはX氏かY氏かを中村屋関係者以外が論じても無意味なのと同じだ。日本国の首相にふさわしいのは誰かをアメリカ人が大挙して論評している図を見ればこの無意味さと、気味の悪さに気がつくというものではないかと思う。多くの人は「あんたの首相じゃなくて、私んちのだからね」と言いたくなるだろう。少ない人は、アメリカ人がいいというのならこっちの方がいいのか、と頷くかもしれないが。


それにもかかわらず多くの人びとは言うだろう。あなたね、アメリカの大統領は別なんですよ、アメリカの大統領が変わるたびに私たちは影響を受けるのですから、と。しかし、だったら先の見取り、自分たちにとってはどうか、の影響関係マトリックスを用意して見なければならない。


そういうわけで、結果としては、意図とやってることが分岐していることがとても多いかもなぁ、ではあるのだ。

ビジネスシーンにいる人びとはこのへんとてもシビアだし、そういうサークルもどきは、ブログになっていたりはしない、ってのも、考えてみれば、日本にとってどうか問題を考えることが一般に不評だという証左なのかもしれない。


しかし、だったらこの一般人とは何なのだろう? というか、そういう論評をものする大マスコミとは何をやっているつもりなのだろう、だ。でもって、どういう観点から考えても、国の枠、あるいはその下位に属する所属集団の利益(単なる金銭上の損得だけでなく理念とか、感情的なスムースさでも)を外しては、役に立ち得る論評はできない、ってか、ものを見ようにも見えないのじゃないのか、など思う。

で、ここにさり気ない綾があるのだろう。最強のプロパガンダ部隊は、ここで、わかった上で、ユニバーサルな問題をあげる。誰にとってもそうでしょう、というやつだ。しかし、それは必ず意図がある。ただし、実行部隊にはそういう意図は主観的にはない。