差異の表示とネーション

フランスの宗教的標章を巡る問題についての文字化けをなおしました。

昨日の分にコメントをいただいているように、fenestraeさんのところにこの問題の詳しい来歴があります。素晴らしい&ありがとうございます。
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20040906#p1



今朝のトロントスターの投書欄にもこの問題が出ていた。断続的にこの問題は根強く興味関心を呼んでいるっぽい。

で、おおまかに言えば、カナダではフランスの処置については、「ええ??」で、あんまり好意的ではない人が多いのじゃないかと思う。「いいじゃん、別に」という緩いリアクションから、ここカナダでまったく日常的にスカーフだの帽子だのを宗教的表徴として身につけている人がいっぱいいるのだがそれにもかかわらず何か事が起こってるってもんでもないんだからこんぐらい寛容でいいんでない?という実体験に根ざす見解を中間にして、強硬には、自由、人権を語り反対、自由と人権と平等を考えて賛成と、そんな感じだろうか。


で、まぁ、実際問題何にも事件がないカナダの体験を見ると、いいんじゃないの、と言いたくもなるが、私としては、フランスにはフランスのやり方があるんだし、カナダにはカナダのやり方があるんだから、同断することは慎むべきだろうと思って見ている。一言で言うなら、国民国家的にできあがっている国と、帝国直轄地として新築したところでは差異の表示に対する人びとの反応は同じではないということかなと思う。


あと、それを理解した上での現在の国是の違いってのもある。カナダにとっては、まるで国連のPRポスターよろしくいろんな人がいろんな形のまま存在することをある種目標としているわけだから、人びとの表徴込みでOKです、ってのは国是に叶う。政権に求められているのはそれにもかかわらず穏便に事を推移させること、なわけで、強い国にするとか目立ったことをしろってのは殆どまったく求められていない。そう、ここって国連直轄地みたいだよな、と私はしばしば思う(笑)。いや多分それは冗談ではないのだと思う、いろんな意味で。そして帝国直轄地であり国連直轄地であるってことは、大英帝国が国連だっていう意味になるわけで、ああそうか、やっぱりあれは連合軍の団体なんだよなと考えないわけにはいかないわけで、日本人にとってはいささか皮肉で困惑含みで憤慨したくもなるが、ま、あたらずとも遠からずなのじゃないのかな。


それに対して普通の国民国家群ではこのような差異満開政策はなかなか容易ではないと思う。なぜなら、どうやったってその国を構成しているマジョリティがいる、というか、このマジョリティこそ国だ、ってのがnation-stateだから。原理原則で国を立てているわけじゃなくて、成り行きで構成し得るものが基本で、その上で情勢に応じて、原理原則、体制に種々変化がある。共和国にするとか帝政にするとかって冗談でやってるわけではない。しかし根本にはマジョリティはオレたちだ、というオレたちが存在する。もちろんこれはこれらnation-steteという仕掛けが見せるある種倒錯した姿ではある(nationが先にいるのではなくて、国民国家あるいはまた国語ができたからnationが遡及的に自覚されるのだ、ってのですね)。しかしのかかし、それにもかかわらず、その地点を過ぎればこの倒錯性は順次自覚されなくなるし私はそれが当然であると思う。つまり江戸っ子になるには三代かかるとしてこの三代目は他にいいようもなく江戸っ子になってしまうのと同じだ。そこでいくら、お前は作られた江戸っ子だと言われたところで困るだろう。だからこの時点でこの近代に特有の仕掛け、倒錯性(と柄谷行人がいうそれ)を過剰に言い立てるというのも、私には、学問的、論理的にはとても大事な仕事ではあるにせよ、現実に対して、だからどうせいっちゅーねん?だろうかなと思う。蛇足ながら三代目の中でも話言葉と書き言葉の乖離がほとんどない人びと(私もこれに入る)にとっては、倒錯理論を我が身として受け入れることが逆に倒錯になる。


なんだっけ、何を話してるんだっけか。ああそうそう、国民国家と国連直轄地じゃない、差異の標章とネーションか。

フランスにおけるこの問題への取り組みは、fenestraeさんが丁寧に解きほぐしているように、「公教育における非宗教の原則」(主に共和国フランスの発生過程ないしは前史におけるカトリックとの攻防に根ざして)を主軸として、「宗教共同体主義 のシンボルとしてのスカーフ」(個人の宗教の自由を言いつつ現実には宗教共同体のrepresentationになっていないのか=個人への圧殺を内包し得る)をサブとして展開されることになるだろうと思う。

言い方を変えれば、宗教共同体からの個人への分離、抽出と、それをエンハーンスする公権力=国家、ということでしょうか。


多分それは正しい議論の方向なのだろうかなと思う。しかし、私はなんだかそれでは解決しないような気がしないでもない。なぜなら上にも書いた通り、国民国家モデルとしてそれはとても正論である一方で、その正しさは、一国モデルであることによってもたらされる、証明されたものであって、もしかしたら多様性、流動性の中ではもう少し別の視点から考え直さないとならないのかしら、なんても見えるから。流動性過剰のフェーズとは差異の断続的な出現だと思うのだが、それに対して公権力がなし得るものはなんだろうか? 私にはまだよくわからない。たとえば、なぜスカーフ少女をあるいはユダヤ帽少年を人びとは「これみよがし」だと見るのか、などというのは多分非常に重要な示唆かもしれない。