言葉と私

I won't apologize, Parrish says
http://www.thestar.com/NASApp/cs/ContentServer?pagename=thestar/Layout/Article_Type1&c=Article&cid=1093514648442&call_pageid=968332188492&col=968793972154


カナダの政治家は本当に好きなこと言うよなぁとしばしば思うのだが、この人はまた格別すごい。パリッシュという女性議員は昨年「Damn Americans, I hate the bastards」・・・何と言ってもいいんだけど、くそったれのアメリカ人、だいっきらいあの馬鹿やろう、とでも言いましょうか、そんなことを言って話題をさらった。それもイラク戦に反対したカナダがアメリカの、政府に限らずビジネスシーンから個人的な関係まで様々な仕返しあるいは反撃を恐れて、もう薄氷を踏むような感じで暮らしていたところだっただけに、ガイジンたる私としてはかなり驚いたものだった。


詳しくは、事の顛末は、ここの欄外に書いた通り。(「終らない棒倒し」No.4)
http://www.shobunsha.co.jp/html/owaranai/04.html


パリッシュはおおまかにいえば、アメリカ人をひとまとめにして馬鹿なんて言ったのは間違いだったわ、という懲りないといえば懲りない謝り方をして、ある意味で筋を通していたのだった。


今回は、ミサイル防衛網に関して、「馬鹿とは同盟なんか組まないわよ、賢い人たちの同盟を組みたいわよ」といったことを言った。で、そう発言している陽気といえば陽気、調子に乗ってるといえばそんな感じのシーンまでテレビに映ってしまったから騒ぎはさらに大きくなって、今日は首相が、ものすごく大事な問題なんだからさそういうのはないんじゃないの、とやんわり注意。で、タイトルの通り、パリッシュは、いいえ謝りません、と言っているらしい。きっとまた面白いオチが来るのに違いない。

★★MDについてのカナダの反応の1つの理由なのか?の北米防衛については、
http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20040830#1093827136



上のNo.4でも書いたけど、ここの人たちの発言を遮られることへの拒否感というのは並ではないものがある。遮られずとも道を踏み外さないことは多分望ましいのだが、最初から規定された通りになんか言え、とか、発言を修正しろ、みたいなことはとても嫌がられる。


これは政治家の発言だけではなくて、他人の言葉に棹をささない、って変な言い方だけど、そういう感じは日常にも現れていると思う。言葉は思考なのだとしたら、他者の言葉に修正を加えようとする行為は他者の頭の中に手をつっこんでいることと同じではあるのだ。


「英語ではこういうのよ」というのを簡単に口にする人もいないではないが、言わない人は言わない、というのもこの話と同じだと思う。なぜならそれは多人の考えを差配しようとしていることになるから。もちろん英語学校に行っている人はまぁこういうセリフに囲まれていないわけにはいかないんだからそこは例外だが。

つまり、英語ではこういうのよ、と、例えば、How are youに対して、I'm fine, thank youと言うのだよ、と言ったら、それはその人、もしかしたら英語に不自由な人の考えを無視しているとも言える。彼彼女は、I'm fineじゃなくて、なんだかな、とか、だらだら、とか言いたいかもしれないのだ。一番いいのは彼彼女なりの表現が獲得できればいいわけであって、それのヘルプはしよう、つまり、あなたが言いたいのはこういうことか、ああいうことかとサンプルを並べもしよう、しかしものごとを定型のように教えるのは良い時もあれば悪い時もあるぞ、ということらしい。だから、もし他人の考え、感情を規制したりしたくなければ、仮に目の前の話者がボロボロの言語を操っていてもそう簡単にはそれを「まちがってる」とは言えない。彼彼女は、別の何かを言おうとしているのかもしれないのだから。


とはいえガイジンからすると、ざっくり言って、ネイティブに通じ易い楽チンな「セット・エクスプレッション」なるものを獲得したい、教えろ〜と思うこともあるんだが、人びとはそれぞれのことを言う、と考えている人びとにあっては定型句が必ず効くわけでもないから、結局私の要求はかなりのところ無意味だったりするんだろうなと思う。ボロの言葉よりも、言いたいことが何なのかがわからないことの方がよくないみたいな感じは私の体験からも言える。