チャイニーズの友達はいますが・・・

中国を中心にして云々という言辞を日本のマスコミがなんてこともなく、あたかも当然のようにして書く何回かに一回私がカチンと来るのは、「中国」が、と書くことによって、それはあそにいる人びととしてのチャイニーズのことではなく、中国共産党率いるところのその国を援護していることになっていないのか、との疑義を持っているから。

このことをいくらかでも考察にいれてものを言っているのならいくらでも考えるべきだと思うが、ここを飛ばすのはどうかと思う。50年後も中国共産党がすべからく統治していると考えらることはとても難しいと私は考えるのだが、多くの人はひょっとして「中国」のままだと考えているのだろうか? そしてそれを望んでいるのだろうか?


 何年か前、中国をシナと呼ぶことで一時期揉めたことがあった。あれは石原慎太郎が悪意に満ちたそぶり及び意図の上に言っていることがあまりにも明らかなために多くの人の反感を買ったし私自身もこの愚かなじいさんを援護していとは露ほども思わなかった。しかしながら、ここには聞くべきものはある。なぜなら、なぜなら、そこは外から見た時、秦以来以前としてChina、シナで人びとは自らをシナの人間たるチャイニーズと呼ぶからだ。
 一方で、清とは王朝の名前だ。だったら、中華民国も中か人民共和国も王朝の名前ではないのか? 王朝というのが言い過ぎなら、統治スタイルの名だ。いや、オレたちは清王朝以降中華なにがし、という名を統合体、ネーションの名にしているのだというのならそれもいいだろう。しかしだったらなんで自らをチャイニーズと呼ぶそれはなんだ? チャイニーズは自分の言葉で呼ぶ名と英語名を両方持っていることを不思議としない人びとだから、それはつまり、ウチと外の使い分けなのかもしれない。それならそれでもいいだろう。だけど、なんで日本がChinaとは呼べないのか? これは当然に問題としてもいいことではないのか。
 
 
と、実際問題このことの結論はどうでもいい。いろんな解釈があってもいい。しかしこれを私が中国政府宛にあるいはメインランドの中国人に対して疑問を呈することは相当に難儀な仕事だと考える(それよりも前に日本で言うと叩かれそうで恐いというのも相当へんな事態だが)。


 さてここにあるのはなんだろう。私には端的に言って考える自由がない状態だと思えるし、それをパブリックにすることの自由がほぼ絶望的なまでに欠けた状態だと言っていいだろうと考える。つまり自分たちの歴史を自分の頭で考えてはいけない自由ならたくさんあるといったところじゃないのか。文化大革命とは実際そういうことだったのだろうが、ともあれそれはそれでそっちでやってもらっていいが、日本人たる私がそこに乗らなければならない理屈はない。にもかかわらず、日本政府及び日本のマスコミにも、そしてそこで知恵を授けられたらしい日本の賢い人びとにもこういう自由はないらしいのだ。ま、全体として考えて、中国政府が恐いからと言ってもきっと間違いではないだろう。論理的に考えれば私は彼らを外から見ることを遮られたかのような状態にあるのだから、イヤだ、チャイニーズ、Chinaと呼ばせろと言ってもいいかもしれないにもかかわらずそれは果たされない(とかいって、現実的には私は毎日チャイニーズ、シノワズと言っているんだから何の問題も起きてはいないのだが。私にはチャイニーズの友達はいるけど、中華人民共和国人と友達になるのは多分そうとう難儀だ)。
 
 
にもかかわらず、人びと、就中日本の人びとはあそこを「中国」と呼びあたかも大昔からそうであったかのように取扱い、そして今後も千代に八千代に続くかのように表現してなんとも思わない。これはつまりこの体制の維持に対して好意的であることを示していないのか?
 
 
しかし、続くのは、今現在シナと呼ばれ、自らをそこの人びとと語る人びとのランドだ。それが私たちの隣人だ。(いつか別の名前が付くかもしれないが、シナを語源とするこっちの語の普及率は高いからこれがなくなることはないだろう。) 一方、「中国」とはあるいは中華人民共和国とは、言ってみれば1つの王朝だ。そしてその王朝は、どう考えても問題を孕んでいるし、今現在私たちがある程度健康的な体制でると見なすそれとは乖離している。

(「日本」というのが神話だとさんざん叫ぶ日本国内の左翼という人がどうして「中国」とシナの分岐を指摘しないんでしょう? それは文言としての正統性の問題などではないでしょうに。)
 
 
 と、やや冗長に書いているが、私はこの王朝が今後もサウンドに続くとは考えていない。続くことが良いことだとも考えていない。どこかで振り返る、変化する必要がある。だからと言って私にそんなことを言われようものなら怒るよなぁ、きっと、普通のチャイニーズではなくてエリートのチャイニーズが。普通の人たち、お金も権力もない人びとは、私の見知った感じでは、結構あきらめているのじゃなかろうか? 政府に言ってもはじまらないと。そしてエリートとは、当たり前だがある体制にとって正の位置にある人だ(学問の自由を語った経緯がある地で、知的エリートが独立できる社会だというのでない限り)。
 
で、反日っていうのが盛り上がっていることは、現在の中国共産党支配にとって必要なことなんじゃないですかね。どう考えても矛盾なり詳らかにしていないこと、あるいは民主的というのか、自由度が高いというのか、詰まるところ考える自由を先端とした自由社会への希求傾向を潰すためにこそ必要なお道具じゃないのでしょうか。その意味では、善悪抜きで考えれば、日本が日本になるために戦争が必要だったのと似てるのかもしれない。明治維新のやましさ、欧米ファクターを見ないふりで行こうとして、攘夷になって、誇大妄想的になる、それは悪だが一方でそうはいってもどうあれそれで人びとがある種の自信を獲得することもウソではない。言ってみれば、もてない男に自信を回復させるためにはとにかくどうあ譽?璽襯侫譽鵐紐容世??錣擦任?譴仄麋?茲?い?海箸世??召房麋?茲?い?困箸癲?燭發靴覆い茲蠅和進???發靴??儀晃??恩困垢覯椎柔?呂△襦△箸い辰燭箸海蹐任呂覆?蹐Δ?


しかし問題はこの時、日本はそんなこといったって日本なんて名前があろうがなかろうが、徳川統一王朝だからなぁ。切れ目なく主権が交替している。一方チャイナはといえば、欧米に突っ込まれた後に日本、と荒くみればそうだが、その中で内戦やってるわけだし、その一部は台湾に出ていってしまった、ではある。ここで統一感を持つというのは相当な無理が要る。食うや食わずの時代ならいざしらず・・・だと私は思う。中国共産党に人びとが自由に解釈する歴史を提案してみる勇気のある人いますか? ここであなたが躊躇するのなら、私は「中国」という語を使うたびにそれが示す内容は何なのかを頭の中で考えてみるというのも無駄ではないのではないですか、と提案しますです。


ちなみに、自由社会というのは理念で人びとが納得するからそうなるというよりも、身分制社会崩壊の余波、あるいは必然的にもたらされる帰結ではなかろうかと私は考えている。オレが食ってくために身を移す、移動する、その繰り返しの中で人びとは、「オレの身の程」を無くし、考える自由が自由な行為の結果として自明になるのではなかろうかと。そして一方では旧来からの秩序観とこの自由を整合させていく。大変だがそうやって社颪詫遒蘇佞?鵑世蹐Α

と考えてきたら、今移動の自由も考える自由も発言の自由もないところとは、これから大きく変わるところに決まっている。