彼女のおかげでカナダは2つめのメダルを取りました。

カナダのオリンピックは、冬と相場は決まっている。っていうのも酷い言い方だが、基本的には人びとの力の入れ方は、やっぱ、ホッケーがなくちゃ、ではなかろうかと思う。

そうはいっても、とっても楽しみに見ている人はいっぱいいるのだが、それでも全体としてみれば、最後にまた書くように、やっぱりどうも力の入れ方ではなくて、入れる位置がどうも私が知っているオリンピックとはどこか違うのだ。

そんな状況で、ちょっとスポーツについて考えてみる。ま、疲れているのであんまりマジじゃないのだが。

スポーツと一口に言ってもいろいろあるわけで、ざっくり言って、見せ物としてのスポーツと、なんとなく身体のためになんかするスポーツと、何か芸事を習うようにやるスポーツ、などとまず分けられるだろう。

見るスポーツはカナダでもホッケーを筆頭として、メジャーリーグのチームのある野球、それからスケートも盛んではある。人びとは大挙して観戦にでかけるしテレビの中継もばっちり。

身体のためになんかやるスポーツは、みんななんだかいろんなことをしている。そしていろんなことができるのは、なんのかんのと施設があるからだろうと思う。市なのかなんなのか知らないけど、パブリックなところで手軽にできることは結構ある。無料のテニスコートもそこらにあるし、冬になったらスケート場も室内にも屋外にもそこらにある。グランドってのも結構そこかしこにあって、よくラグビーやったりしてるのを見る。そうそう、ここならではというべきか、冬になると室内のスケート場では地元の子どもたちがホッケーをやっていて、その子たちは夏が終わりになってくるとそこかしこでスティックを振って練習している。その他、ジョギングは勝手にやってくれといったところか。あと、そうだ、カヌーだの、カヤックだの川遊び一式及びウィンドサーフィンってのも密かにものすごい熱中派がいる。真冬の結氷した湖での魚釣りというのも、スポーツと呼ぶべきか。これらはみんな施設としては無料。費用は装備によりけり。

もちろんクラブ体制のテニスクラブとかもあるし、有料の最たるものは室内プールだろうか。屋外プールはタダだけど、室内プールは無料のものは数が少ないし、やっぱり施設維持としてはコストがかかり、それがかけられないと汚いことになって・・・それでも泳ぎたい人はやっぱり会員になるかな、って感じ。勿論条件のいいコミュニティーセンターのあるところは無料もある。あ、サイクリングもかなりマジな人がいっぱいいる。いい年こいたおっちゃんたちが毎週集まってサイクリングしてるのを知っている。


と、いろいろ書いたが、カナダ人にとってのスポーツとはどうあっても、まず第一にそこらで人びとがやっていること、としか言い様がない。身体のためにをも超えている。ある意味で暇つぶし、ある意味で遊び、ある意味で楽しみ、それは当然それぞれに決まってる。で、その上で、まぁ強くなるならなれば、だし、そういうのが面白いと思えば見られるスポーツの選手になるってのもいいだろ。で、スポーツの楽しみは、そして、なんのかんのといろんな人にあって共通の事をやるってことに尽きるんじゃないのかななんても思から他の娯楽と変わるところは考えてみれば別にない。上手になるにしても、自分一人でできても面白くないわけで、みて〜、できるようになったのぉ、Oh good! と言われたいじゃない?

で、こういうところでスポーツとは何かを考えると、とても苦労する。語れるものはあまりない。それは他の趣味と同じ。勝手にやりたい人はやって。やりたくない人も勝手にして、以外になにがあるのだ?だ。


翻って私が育った地にあった、私が結構時間も力も注いだそれはこれと同じなのかとの疑問を私は持つ。そうして結論として、もしここで見るのがスポーツならば、あれは「体育」としか言い様がないのかななどと思う。体育とはなんぞやというのはなかなか難儀な課題なのだが、それはとにかくスポーツ、気晴らしではなかったし、個人が個人のペースにあわせて勝手にやるものでもなかった。


お話もどってカナダ。そういう機構だからなのか、どうもここは、オリンピックはあまり芳しいとは言えない。今日現在でメダルは銅と銀の2つ(だと思う)。もちろんオリンピックといえば冬だからというんもあるんだろうが、どうもこう、ムードが違う。

今日の銀メダリストの報道が「彼女のおかげで、カナダは2つめのメダルを取りました。」といっていた。そしておめでとうムードがおだやかに流れていたのだが、これは日本だったら、「みんなのおかげで彼女はメダルが取れた」じゃないのか?と、いささか一般化が過ぎる言い方だし意地悪い対比だが、そう思えたりしないこともない。事実人びとは、「みなさんの応援のおかげで」という選手の言葉をどこかで期待もし、どこかで当然とも思っている。事実問題としては人はいつだって一人ではないのだし、偉大なことを成そうとすればするほど周囲がみんなで応援している。しかし、その一人はやっぱりかけがえがないのではないのかとも考え得る。周囲がどんなに揃っていてもその一人がいなければ何も起きないかもしれないのだ。だったらそれはまず第一に彼女の尽力ではないのか。


まとまりのない文章なのだが、体育→オリンピックと、見せ物→オリンピックを是とできる国々でどうもオリンピックは特別な位置を獲得しているように見える。


とはいえ私は「体育」が嫌いではない。あれはあれで伸ばせばいい部分をいっぱい持っていると思う。ただこれは私自身は比較相対的に体育が別に苦手でもなく、一族郎党それで苦労するということがこれも比較相対的になかったからであるかもしれないとは思っている。

ついでにいえば体育会、体育会系も嫌いでもない。これはこれでいいこともある。繰り返すがこれもまた私のキャラクターがこれに対して親和性があったからである可能性はとても大きい。

そして、体育が嫌いか好きかと、体育が正しいか否かはまったく問題の水平が違う。思うに、これをぐっちゃにしていることが、体育を巡る問題の本質なのかもしれない。